今年の夏は暑かったですね。まだ過去形ではないのかもしれませんが。七月くらいまでは涼しい日が続き、「早く梅雨が明けてスカッと晴れないかなぁ」なんて思いをはるかに突き抜けて、連日暑い日が続きました。私の記憶ではすこやか歩こう会の活動が三回続けて中止になったことはなかったと思います。「八月全滅は避けたい!」という思いが通じたのか、何とか活動できる気温に収まりました。
高井戸西の住宅
生け垣があり木がこんもりと茂った住宅も最近では珍しいと写真に撮っておきました。この日の集合場所は高井戸駅で、以前のこのコースはいきなり神田川沿い歩き始めたのですが、最近は環八を北へ向かいスーパーオオゼキの先を左に入るコースを採用しています。
くりのないとう
高井戸駅近くにあり井の頭線からも見ることが出来るこの栗園は神田川が作った南向きの緩やかな斜面にあります。ネットで調べて見るとここで生産される栗は人気で、栗園で販売されるのみだそうです。試してみたい方は九月下旬に栗園まで販売日を確認しに行ってください。
高井戸児童館
こちらの日陰をお借りしてウォーキング前のストレッチを行いました。さわやかな風が吹き抜け、ストレッチには最高の場所でした。
井の頭線
神田川
ケイトウ
キバナコスモス
アズマギク
できるだけ日陰を歩きながら神田川を遡ります。花を見ているとひと月ぶりのウォーキングでずいぶん花種が変わったようです。
スタート地点より6.8km
富士見ヶ丘検車区
久我山駅
中野区との区界がどこだろうと調べて見たところ、方南町のあたりです。中野富士見町に神田川と善福寺川の合流点があるのですが、遡ると善福寺川はすぐに杉並区に入りますが、神田川は環七を越える手前まで中野区を流れます。
無人鶏卵販売所
久我山駅を過ぎ宮下公園で水飲み休憩でした。こちらも木陰では気持ちの良い風が吹きます。前回このコースを歩いた時はこの先宮前橋で神田川と別れ、人見街道を歩いていたのですが、歩道が狭くウォーキングには不向きでした。
今回ルートを改善しましたが、細い道で目印が無くかなり難しいルートとなりました。玉川上水と出会う手前の三鷹市井の頭一丁目8番地にキウイ棚の下で鶏を放し飼いにしている農家があり、そこの卵が売られていました。地図で確認してみるとこの無人販売所がある場所は、小学生の時に来たことがある親せきの家があった場所のようです。歩いているときに気が付いていればもっと懐かしかったのになぁ!
玉川上水
ボタンクサギ
ヤブミョウガ
シイの実
キカラスウリ
ヘクソカズラ
玉川上水沿いは木陰がある土の道で、暑い日のウォーキングに最適です。
井の頭公園
公園に到着してウォーキングは終了です。ここでのストレッチもいい風が吹いて最高でした。
井の頭池の湧水
この湧水が「一番の井戸」を意味する「井の頭」の由来となっていますが今では湧水が枯れてしまい、地下水をくみ上げています。「徳川家康が命名した」と説明してきましたが、家光のようです。Wikipediaから井の頭恩賜公園の歴史の一部を引用します。
井の頭池は豊かな湧水を誇っている。園内武蔵野市側の御殿山遺跡からは縄文時代の竪穴式住居遺跡や、旧石器時代の石器や、敷石住居も出土することから、井の頭池は古くから人間の生活に不可欠な水源となってきたことが窺える。
井の頭池西端の島に現存する井の頭弁財天(別当寺は天台宗大盛寺)の起源は、伝承によれば、平安時代中期に六孫王経基が最澄(伝教大師)作の弁財天女像を安置するため、この地に建てた堂であるとされる。弁財天の縁起には、その後源平合戦の頃、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築されたことが伝えられている。その後、鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天が焼失した。数百年の間放置された後、江戸幕府三代将軍徳川家光により弁財天が再建された。
井の頭という名称は一説には家光によって名づけられたものと伝えられ、自ら小刀で弁財天の傍らのこぶしの木にその名を刻んだとも伝えられる。現在、その場所にはその伝承を記した石碑が建てられている。
井の頭という名称の由来についてはそれ以外にも、「えんかしら、この水の美しさ」と家光が驚嘆したことがその後に転じて「いのかしら」になった、とする説もある。
なお御殿山の地名は、家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことに由来する。この一帯の武蔵野は、三鷹という地名にも残るように、徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場であった。
井の頭弁財天の持ち寺の大盛寺の記録『神田御上水井之頭弁財天略縁起』には、「家康が自らの手で水を汲み、関東随一の名水だと褒めて、お茶をいれるのに使った。」と記されている。江戸時代の特に江戸市民にとっては、弁財天は信仰の地であるとともに、行楽地でもあった。これは、江戸時代の初頭に神田川が改修されて江戸に神田上水が引かれたため、江戸市民にとって井の頭池が水がめとなったことと関連している。弁財天境内や向かいの石段、石段を登りきった周辺などに、その当時の商人や歌舞伎役者が寄進した石灯籠、宇賀神像などが残る。なお、かつては石造の鳥居も存在した。この鳥居は1767年(明和4年)に寄進されたものであるが、明治初年の神仏分離令の際に撤去され、鳥居の柱石は後に井の頭池と神田上水の間の水門に転用された。その水門は現在使用されていないものの、池の東端付近に今も残る。弁財天への参道は現在も史跡として整備されており、「黒門」と呼ばれる黒い鳥居もある。
江戸時代には井の頭池と一帯の林が幕府御用林として保護されていたが、明治維新後は東京府が買収した。
雨情の歌碑
井の頭池
ミソハギとガマの穂
吉祥寺に来ると行きたい店はたくさんあるのですが、日曜日はどこも混んでいます。ケーニッヒで白ビールとホットドッグ、食したかったなぁ!
井の頭線で渋谷へ向かい、山家で焼き鳥を食べました。この日はやけにつまみが出てくるのが遅く、ついついビールを飲みすぎました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
高井戸西の住宅
生け垣があり木がこんもりと茂った住宅も最近では珍しいと写真に撮っておきました。この日の集合場所は高井戸駅で、以前のこのコースはいきなり神田川沿い歩き始めたのですが、最近は環八を北へ向かいスーパーオオゼキの先を左に入るコースを採用しています。
くりのないとう
高井戸駅近くにあり井の頭線からも見ることが出来るこの栗園は神田川が作った南向きの緩やかな斜面にあります。ネットで調べて見るとここで生産される栗は人気で、栗園で販売されるのみだそうです。試してみたい方は九月下旬に栗園まで販売日を確認しに行ってください。
高井戸児童館
こちらの日陰をお借りしてウォーキング前のストレッチを行いました。さわやかな風が吹き抜け、ストレッチには最高の場所でした。
井の頭線
神田川
ケイトウ
キバナコスモス
アズマギク
できるだけ日陰を歩きながら神田川を遡ります。花を見ているとひと月ぶりのウォーキングでずいぶん花種が変わったようです。
スタート地点より6.8km
富士見ヶ丘検車区
久我山駅
中野区との区界がどこだろうと調べて見たところ、方南町のあたりです。中野富士見町に神田川と善福寺川の合流点があるのですが、遡ると善福寺川はすぐに杉並区に入りますが、神田川は環七を越える手前まで中野区を流れます。
無人鶏卵販売所
久我山駅を過ぎ宮下公園で水飲み休憩でした。こちらも木陰では気持ちの良い風が吹きます。前回このコースを歩いた時はこの先宮前橋で神田川と別れ、人見街道を歩いていたのですが、歩道が狭くウォーキングには不向きでした。
今回ルートを改善しましたが、細い道で目印が無くかなり難しいルートとなりました。玉川上水と出会う手前の三鷹市井の頭一丁目8番地にキウイ棚の下で鶏を放し飼いにしている農家があり、そこの卵が売られていました。地図で確認してみるとこの無人販売所がある場所は、小学生の時に来たことがある親せきの家があった場所のようです。歩いているときに気が付いていればもっと懐かしかったのになぁ!
玉川上水
ボタンクサギ
ヤブミョウガ
シイの実
キカラスウリ
ヘクソカズラ
玉川上水沿いは木陰がある土の道で、暑い日のウォーキングに最適です。
井の頭公園
公園に到着してウォーキングは終了です。ここでのストレッチもいい風が吹いて最高でした。
井の頭池の湧水
この湧水が「一番の井戸」を意味する「井の頭」の由来となっていますが今では湧水が枯れてしまい、地下水をくみ上げています。「徳川家康が命名した」と説明してきましたが、家光のようです。Wikipediaから井の頭恩賜公園の歴史の一部を引用します。
井の頭池は豊かな湧水を誇っている。園内武蔵野市側の御殿山遺跡からは縄文時代の竪穴式住居遺跡や、旧石器時代の石器や、敷石住居も出土することから、井の頭池は古くから人間の生活に不可欠な水源となってきたことが窺える。
井の頭池西端の島に現存する井の頭弁財天(別当寺は天台宗大盛寺)の起源は、伝承によれば、平安時代中期に六孫王経基が最澄(伝教大師)作の弁財天女像を安置するため、この地に建てた堂であるとされる。弁財天の縁起には、その後源平合戦の頃、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築されたことが伝えられている。その後、鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天が焼失した。数百年の間放置された後、江戸幕府三代将軍徳川家光により弁財天が再建された。
井の頭という名称は一説には家光によって名づけられたものと伝えられ、自ら小刀で弁財天の傍らのこぶしの木にその名を刻んだとも伝えられる。現在、その場所にはその伝承を記した石碑が建てられている。
井の頭という名称の由来についてはそれ以外にも、「えんかしら、この水の美しさ」と家光が驚嘆したことがその後に転じて「いのかしら」になった、とする説もある。
なお御殿山の地名は、家光が鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営したことに由来する。この一帯の武蔵野は、三鷹という地名にも残るように、徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場であった。
井の頭弁財天の持ち寺の大盛寺の記録『神田御上水井之頭弁財天略縁起』には、「家康が自らの手で水を汲み、関東随一の名水だと褒めて、お茶をいれるのに使った。」と記されている。江戸時代の特に江戸市民にとっては、弁財天は信仰の地であるとともに、行楽地でもあった。これは、江戸時代の初頭に神田川が改修されて江戸に神田上水が引かれたため、江戸市民にとって井の頭池が水がめとなったことと関連している。弁財天境内や向かいの石段、石段を登りきった周辺などに、その当時の商人や歌舞伎役者が寄進した石灯籠、宇賀神像などが残る。なお、かつては石造の鳥居も存在した。この鳥居は1767年(明和4年)に寄進されたものであるが、明治初年の神仏分離令の際に撤去され、鳥居の柱石は後に井の頭池と神田上水の間の水門に転用された。その水門は現在使用されていないものの、池の東端付近に今も残る。弁財天への参道は現在も史跡として整備されており、「黒門」と呼ばれる黒い鳥居もある。
江戸時代には井の頭池と一帯の林が幕府御用林として保護されていたが、明治維新後は東京府が買収した。
雨情の歌碑
井の頭池
ミソハギとガマの穂
吉祥寺に来ると行きたい店はたくさんあるのですが、日曜日はどこも混んでいます。ケーニッヒで白ビールとホットドッグ、食したかったなぁ!
井の頭線で渋谷へ向かい、山家で焼き鳥を食べました。この日はやけにつまみが出てくるのが遅く、ついついビールを飲みすぎました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール