傑作「ファイアパンチ」の記事で言及し、また最近アニメ版2期も始まったということで、「鬼滅の刃」とそれが描く利他性の話に再度触れておきたい。
この話については何度となく言及してきたが、ただ作品を読んでいるだけだといわゆる「深読み」の類に思われるかもしれないので、そのエッセンスが集約されていると言っても過言ではない17巻のセリフから引用しておきたい。
「人に与えない者はいずれ人から何も貰えなくなる。欲しがるばかりの奴は結局何も持っていないのと同じ。自分では何も生み出せないから。独りで死ぬのは惨めだな」(愈史郎が上弦の陸に向けて言ったセリフ)
「炭治郎・・・格段に技が練り上げられている。お前のその実力は柱に届くといっても過言ではない。上弦の参を相手にこれ程。あの日、雪の中で絶望し、頭を垂れ、涙を流しながら妹の命乞いをするしかなかったお前が、戦えるようになった。命を、尊厳を、奪われないために」(上弦の参と戦う炭治郎の姿を見た義勇のモノローグ)
これらを一言でまとめるなら、「人は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」というものがもっとも近いのではないだろうか。いささか手垢のついた言葉ではあるが、ゼロ年代の弱肉強食・生き残りのバトロワ系、そして絆が強調されるようになった2010年代を経て、集大成のようにしてこの作品が生まれた=時代を象徴する作品と私には思える。
社会情勢や経済状況が厳しくなる状況において、道徳や仲間意識よりも生き残りや利己性を優先するのはわかりやすい。しかしそれは、しばしば砂をかむような生でもあり、また結局のところ人間が必謬性を免れ得ない以上、他人を出し抜くことばかり考えて生きるのではなく、互恵的な振る舞いから信頼関係を構築する方が、結果的に自己のためにもなることがよくある。
それは、歴史や実社会を広く見れば、比較的容易に認識されることだと思われる(例えば、寛容な統治や政策は単に人民に対する惻隠の情だけが理由で行われるものではない等)。まあそもそも、先に述べたようなバトロワ的振る舞いを日常でしていたら、(ちょっとカリカチュアされすぎな言葉だが、この場合は正しく)サイコパス扱いされるのが関の山で、合理性という見地に立って考えても、長期的に見ればマイナスが大きいのではないだろうか。というわけで、精神論以外の見地からも、バトロワ系的弱肉強食の発想は問題点が多いのである。
そのような気づきは、当然のように「絆」への回帰現象を生み出すが、それはもはや自明に信じられるものではない。そもそもバトロワ系が台頭する背景になった「生き残らねばと人に思わせる状況(≒前提条件)」が変化したわけではないし、何となればそのさらに前提となった共同体の崩壊という要因も変わっていないからだ。だから、第1巻で義勇が炭治郎に対して喝破したようなセリフ・モノローグが生まれる(ここで炭治郎は何ら罪もミスも犯していない点に注意を喚起したい)。
「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!惨めったらしくうずくまるのはやめろ!!そんなことが通用するならお前の家族は殺されていない。奪うか奪われるかの時に主導権を握れない弱者が、妹を治す?仇を見つける?笑止千万!!弱者には何の権利も選択肢もない。悉く力で強者にねじ伏せられるのみ!!妹を治す方法を鬼なら知っているかもしれない。だが、鬼共がお前の意志や願いを尊重してくれると思うなよ。当然俺もお前を尊重しない。それが現実だ。」
「なぜさっきお前は妹に覆い被さった?あんなことで守ったつもりか?なぜ斧を振らなかった。なぜ俺に背中を見せた!!そのしくじりで妹を取られている。お前ごと妹を串刺しにしても良かったんだぞ。」
(泣くな、絶望するな。そんなのは今することじゃない。お前が打ちのめされているのはわかってる。家族を殺され妹は鬼になり、つらいだろう叫び出したいだろう。わかるよ。俺があと半日、早く来ていれば、お前の家族は死んでいなかったかもしれない。しかし時を捲いて戻す術はない。怒れ。許せないという強く純粋な怒りは、手足を動かすための揺るぎない原動力になる。脆弱な覚悟では、妹を守ることも治すことも、家族の仇を討つこともできない。)
そしてこの後に炭治郎・禰豆子の二人は鬼と初めて戦うことになり、さらにそこから鱗滝の厳しい試練が待ち受けているわけだが、こういった厳しい前提(=人は強くなければ生きていけない)があればこそ、(シビアな目を持っている人間が見ても)後に描かれる仲間同士の助け合い・絆や、鬼の内面=敵対者への理解といった描写(=優しくなければ生きていく資格がない)にも初めて説得が付与されると言えるだろう。
というわけで、今回は抽象的なテーマ理解に血肉を与えるために、本編からの引用を中心に書いてみた。これからの社会は、今述べたような世界理解を前提にした上でどう生きるかを模索することになるだろう。そのことが、小難しい理屈でなくても登場人物たちの佇まいで伝わる作品だからこそ、幅広い層からの支持を得ているのではないかと述べつつ、この稿を終えることとしたい。
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