さすがにここまで膨大な分量だとそもそも読む気が起きないんじゃないか、それに読んだ人がいたとしても全体像が最後は全体像がつかめない状態になってしまっているんジャマイカ・・・というのがこの要約版を(2008に)作成した理由であった。まあ10年以上前のゲームの題名を見てその記事を読もうとする人はよほどその作品が好きだと考えられるから、今述べたことはもしかすると杞憂だったのかもしれないが。
ちなみに、今は「君が望む永遠」と「沙耶の唄」の要約版作成の必要を痛感している。というのも、これらの作品を引用する際に、トータルな視点をカバーする記事がないため、非常に偏った(orいびつな)印象を与え、かつ(上から目線で言えば)読者の視野が広がりにくいだろうと考えるからだ。
まあ「君が望む永遠」は扱うべき問題が多すぎるので作成するにしても数年がかりだろうが、「沙耶の唄」はそこで描かれるものを「純愛」と捉える視点についての記事を書いたら一段落するので、その暁には要約版を作ろうと目論んでいる次第。
[原文]
今日ビックカメラに買い物に行った時に初めてジャイアンツの優勝を知ったぎとぎとですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?さて今回は、一連のYU-NOエンディング批評があまりに長文であるため、要約版を作成して論理展開を理解しやすい状態にしておこうと思います。話の全体像が掴みにくくなった時はこちらをご参照ください(なお、単なる要約なのもアレなのでムダに敬語に変えてあります)。
<問題の提示> 原文「YU-NOエンディング批評」
「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は空前絶後と言ってよいほどの傑作ですが、初めてプレイした当時からエンディングにだけは明確な違和感がありました。その正体について考えてみると、どうも主人公である有馬たくやのキャラクター(性格・ものの考え方)とエンディングの雰囲気・内容に整合性がないことに原因があるらしいということがわかってきました。もう少し具体的に言えば、感情的な前者と静謐な後者が齟齬をきたしている、ということです。しかし、ただ齟齬があることを指摘するだけでは説得力がありませんし、何より問題が深化しないように思われます。よって以下では、現行のエンディングの意味・効果とたくやのキャラクターの描かれ方の双方について具体例を挙げていき、その過程でそもそも前述のような特徴の理解が適切なのかどうかを読者の方にお考え頂くとともに、問題意識を共有できるようにしたいと思います。
<エンディングの意味・効果> 原文「YU-NO~エンディングの持つ意味・効果について~」
では、現行のエンディングはどのような意味を持ちうるのでしょうか?以下いくつかの項目を取り上げますが、細かい説明はいたしませんので詳細は原文をご覧下さい。
1:プロローグとの繋がり =システム的回帰
2:始まりに立ち会う男女 =アダムとイブ
3:有為転変する事象から自由であること =不変性
4:ブリンダーの樹の根源=断片を統合するもの =統一体
5:家族への情念 =ケイティア、広大、亜由美、セーレス、ユーノ
6:たくやと広大のアナロジー =家族を追う
7:ケイティアとユーノのアナロジー =巫女、モータリティ
8:究極の二項関係 =タブーからの解放、関係の永遠性
以上の項目だけでも、YU-NOのエンディングは様々な意味を持つだけではなく、内容・システムの両面で物語を統合するという、壮大な展開に相応しい希有な出来を誇るものである、と言うことができます。つまり、内容そのものは非常にすばらしいのです(このことはいくら強調してもしすぎることはありません)。では、やはり現行のエンディングのままでいいのでしょうか?ここで批判の要となるたくやの本編での描かれ方を見ていくことにしましょう。
<たくやの行動原理> 原文「YU-NO:たくやの行動原理」
たくやの行動の特徴を逐一取り上げるのは不毛なので、エンディングとの絡みで重要な部分に注目すると、
A:「家族への情念(=家族の希求)」
B:「日常性の希求」
C:「大きな物語の拒否(あるいはそれへの距離感)」
という三つの行動原理がたくやには一貫して見られます。これらの根拠となるのは、以下のような描写です。
1.広大をぶん殴って「連れて帰る」発言=日常への回帰
2.歴史の真実という「大きな物語」への距離感=真理との距離
3.龍蔵寺邸における会話=不老不死を研究=「頭がイってる」発言
4.デラ=グラントからの脱出の試み=無謀=日常性希求の強さ
5.ユーノにも同じ年頃の友達を…=家族がいればオールOKではない
6.セーレスの復讐において、大義名分を求めない
7.最後の儀式の時の振舞い=世界より家族を優先する人間として
さて、この具体例を見ていただいた上で改めて確認しますと、上記の行動原理は最初から最後まで一貫しているんですね(冒頭のケイティアに抱かれる姿さえも、そのまま家族への情念、セーレス、ユーノへと繋がるわけですから)。ここで非常に重要なことは、その一貫した行動原理が物語展開上なくてはならないものである、という点です。リフレクターデバイスを手にし、およそ50時間程度の幅を動きまわる現世編は、ともすれば様々な分岐へと空中分解しかねませんが、上記で述べた事柄(特に家族への情念と日常性の希求)が原因事象となってそれを防いでいるのです。さらにこの行動原理は、異世界編が単一のストーリーであることに対してもそれなりの説得力を持たせているのです。要するに、この行動原理との齟齬は、局所的なものではなく、物語の構造全体を否定しかねない危険を孕んでいると言えます。以上を念頭に置き、結論部分へと移ることにしましょう。
<結論にかえて:エンディングの代案> 原文「日常への回帰とモータリティの提示」
以上述べてきたことから改めて確認されるように、現行のエンディングとたくやの行動原理は噛み合いません。これは、最初に述べたような雰囲気レベルの違和感(動と静の齟齬)を超える根本的な問題です。なぜなら、たくやの行動原理とは、最初から最後まで物語の展開に必然性を与え続けているドラマツルギーであり、エンディングにどれほど多様な意味が付与されているとしても、それを行動原理の一貫性より優先させることは得策ではないからです(ここからは正ー反ー合で考えるとわかりやすい)。
そういう前提のもと代案を考えてみますと、まず家族への情念からユーノを追いかけるところまでは変えらません。また、事象の根源に立ち会うこともまた必要でしょう。しかしそこまで描いた上で、あえて自分達が今いる空間を否定し、日常へと回帰する必要があります。そのような不死の空間と真理を拒絶し、終わりある(死へと向かう)日常へと回帰することこそ、広大とのアナロジーと現世編とのコントラストから脱却し、真理を探究する広大とのコントラスト及び同じ行動原理に支えられている現世編のアナロジーを成立させることへと繋がるのです。それは、図式的な色合いの強い(必然性の弱い)前者から中身のある後者への飛翔を生み出すだけでなく、一貫した行動原理をも抱え込むという点において、現行のエンディングよりもYU-NOの幕引きにより相応しいものだと言えるでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます