うーむ、これのどこが「冷たい」恋愛相談なんだ(いつもの突っ込み)?仮に「冷たい」というのがあるとすれば、基本的には
1.そもそも相談を突っぱねる
2.「何とかなりますよ」的無責任な現状肯定
のどちらかであり、そもそもちゃんと相談を読み込んだ上で(文章添削つきw)、色々な可能性を提示しているというスタイルの時点で、「冷たく」はなりえねえんだよなあ。まあそんなでびちゃんがいっぱいちゅき(はぁと)という話なんだけど(・∀・)
というわけでまたVtuber関連の記事で、一体「利他」の話の続きはどこへいったと思われるかもしれないが、何に紐づけて語るかが違うだけで、問題意識は共通している。むしろ、こういう具体的な事例を元に実践的な語りが行われないのであれば、それこそ「利他」やら「絆」を学術的なタームで説明したとしても、ただのお題目以上の何物にもならん、て話である(『「利他」とは何か』の中でも、「利他」を定義づけることでそれが固定化してしまうことの危険性は言及されており、例えば若松の論考では柳宗悦があえて言葉について饒舌に語らず、沈黙をすることも少なくなかった、ということが述べられる)。
ちなみに、前にも紹介したでび様の恋愛相談では、好き・嫌いとかはもちろん、ノーマライゼーションや性的オリエンテーション、「結婚という契約」とか様々な問題が随所で登場する(意図的かはわからないが、でび様自身はそういう言葉を基本的に使用しないけれども)。
これについて、以前このブログでは由宇霧チャンネルを紹介したことがあるが、「利他」の話にも連なるものとして、絆や共生という観点で、とある文学作品を紹介するつもりでいる(ただ、テーマ的に三つ先で取り上げるのと、この作品の感想を理屈重視で書くか、感情重視で書くかがまだ定まっていないため、掲載には時間がかかるかもしれない)。
で、次は月ノ美兎委員長の取り上げる「死の認識」に関する話。テーマ的に重たくなりそうなものをライトに、しかし茶化さずに語ろうかという工夫がみられて微笑ましい(まあ冒頭やまとめに出てくる文字のセンスが古のサブカル過ぎてらしいなあと笑ってしまうのだがw)。
自分がこのブログを始めた一つのきっかけは、日本人の無宗教に関する要因を探求したいというものだったが、(少なくとも伝統)宗教というものに帰依する人の割合が減っている今日であっても、結局『サピエンス全史』でハラリが述べたような想像力(あるいは妄想力)とその共有という人間の特性、そして「世界はどうしてこうなっているか」という疑問が消えることがない以上(まあ陰謀論の訴求力はそこにあるわけだけど)、見えない世界を扱ってきた宗教というものへの関りが減ったとしても、そこへの疑問や戸惑い、恐怖が消えて無くなるわけではない(逆に言えば、それを抹消するのは相当な訓練が必要なものと考えられる)。その意味では、こういうカジュアルにそういう経験や疑問を共有できる場があるのは、とても重要なことではないかと思うのである(さっき言及した由宇霧チャンネルなどもそういう性質を持っている)。
ちなみに自分が様々な「死の認識」や死生観について聞いて思ったことをいかに列挙。
・「人間は死ぬものだ」ということにショックを受けた記憶がない
→理由不明。就学前から戦争の映画や八ミリ、時代劇などで人が死ぬのを大量に見てきたからか?しかも身近に宗教があって死後の世界の話とかも日常的に聞いていたからか?
・虫の死でショックを受けた(死を認識した)という話が出てくるが、自分はそれは全くない。ただ、脱皮する直前のセミをたまたま捕まえたことがあり、それを部屋の中に持ってきて網戸につけていたら、最初白かった身体が透明な液体を流しながら徐々に緑色を帯びて成虫になる姿がとても神秘的に感じたことはあった。そしてそれ以来、どういうわけか虫を捕まえることに興味を失ったという経験はある。
・今の感覚は、理屈っぽく言えば、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」という感じ
・「大人になりたくない」みたいな言辞を見てていつも思っていたのは、「なんでそこまで生きられることが自明だと思っているのかよくわからない」だった
・「生きていても死んでいても変わらないんじゃね?」という感覚も正直かなりある。
→ちなみにこれはふと自殺する人の観念に近い
・そういうわけでは、自分にとって避けたいものは「苦>>>>>死」という感じ。
・「人は二度死ぬ」とよく言うが、孤独死が増えている昨今ではその認識すら危ういよね。これが無縁社会ってやつだ。
・結婚する理由として、「孤独死のリスク」っていうのを聞くたびに思うのだが、それって「孤独死を避けるシステムの構築」で話が済むんやないの?つまり、全く本質的な話じゃないよね。そんなことを言ってるうちは、結婚率の上昇なんて無理ゲーじゃないですかねえ。
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