以下は今日の産経新聞「正論」に、日本の戦後は終わっていない、と題して掲載された渡辺利夫拓殖大学顧問の論文からである。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。
本論文が明らかにしてくれている歴然たる事実を多くの日本人は今日まで知らずに来たはずである。
見出し以外の文中強調は私。
昭和20年9月27日、昭和天皇は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーとの会見のため、東京・赤坂の米国大使館に赴かれた。
会見に先立って天皇が右、司令官が左に並び立つ写真が撮影された。
陛下はモーニングの正装で直立、陛下より頭ひとつ背高の司令官は軍装の開襟シャツ、腰に両の手を当てた悠然たる感じである。
日本人の多くがこの写真を侮蔑的なものだと感じるのではないか、少なくとも国民にそのように受け取られることを恐れた内務省は、写真が掲載された新聞を差し押さえ頒布を禁じた。
GHQの検閲下で新聞は
これに反発したGHQ(連合国軍総司令部)は、日本政府が新聞の記事を差し止めたり、発売を禁止したり、編集方針に干渉したりしてはならない、という趣旨の指令を出した。
一旦は差し止められた新聞は半日遅れで配布されることになった。
この事実を捉え江藤淳氏が『閉(とざ)された言語空間』において展開した言説には、いかにも氏らしい鋭い眼光が放たれていた。
このGHQ指令により日本の新聞はいかなる意見表明を行っても日本政府からの処罰を受けることはないという「特権的地位」を手にし、「その代りに、新聞は連合国最高司令官という外国権力の代表者の完全な管理下に置かれ、その〈政策ないしは意見〉要するに彼の代表する〈価値の代弁者〉に変質させられた」と氏はいうのである。
GHQによる新聞検閲の指針は30項目に及ぶ広範なものであった。
GHQに対する批判、極東軍事裁判に関する批判、GHQが日本国憲法を起草していること、ならびにGHQが新聞などあらゆるメディアを検閲下に置いていることへの言及が厳禁された。
日本国憲法の制定が急がれていた。
日本の自衛権否定という露骨な主権制限条項を含む「マッカーサー・ノート」と呼ばれる文書を原案とし、GHQ民政局が調整を加え日本側に提示したものが総司令部憲法草案であった。
抗う日本政府首脳陣を制し、なおこの憲法をGHQの関与しない日本政府独目の改正憲法として公布・施行するという具合にことは進んだ。
誤れる方向へ導いた責任
真実に迫りたいという志をもつ言論人であれば、これほど強引な所業に無知であったとは思われない。
おそらくはこれが検閲指針における最高の禁忌であるがゆえに、知ってはいたが報道しなかったということなのであろう。
日本の新聞はGHQとの「共犯者」になり、江藤氏をして言わしめれば世界に類例のない国籍不明の媒体へと変じてしまったのである。
しかし、である。
日本は昭和26年9月8日にサンフランシスコ講和栄約に調印、翌年4月28日に条約が発効してGHQの進駐は終焉、検閲も廃止されることになった。
当然ながら占領下の7年間、厳しい検閲の堰(せき)にさえぎられて溜(た)まりに溜まっていた鬱積が水流となって轟々(ごうごう)と溢(あふ)れ出るかと思いきや、そんなことはまるでなかった。
戦前・戦中期の報道についていば、日本を誤れる方向へと導いた責任の一端は新聞にもあったと小声で言い、しかし過半の責任は内務省や軍当局の強権的な検閲にあったと大声で言い募ったのである。
その一方、GHQによる検閲は、戦前・戦中期のそれとは比べものにならないほどに陰湿で執拗であったが、新聞はこれを難じることはなかった。
GHQ憲法抱きしめたまま
反対に、日本のメディアは、GHQ解体後もなおGHQ製の憲法を平和憲法だといい、占領期間中の東京裁判の過程で流布された「自虐史観」を発信する側にまわってしまった。
日本の五大新聞による膨大な数の社説の中でGHQによる検閲に異議を呈したものは『読売新聞』(平成9年3月30日付)「言論管理下の戦後民主主義」のみであったとかつて江藤淳氏は述べていた。
読売の真摯を讃えるというよりも、みずからの使命に誠実に向き合おうとしない日本のメディアのどうしようもないまでの不作為を難じての嘆きの指摘であった。
ウクライナヘのロシアの侵攻は「力の空白」こそが専制国家の侵略を招き寄せるという冷厳な事実を証した。
2度の大戦における敗北のトラウマを引きずってきたドイツさえ、これを機に国防政策を大きく転換し「戦後」を脱却しようとしている。
フィンランドもスウェーデンもNATO(北大西洋条約機構)は非同盟国を助けにきてはくれないことを知らされ、同盟条約に参加することに決した。
この期におよんで日本という国は、GHQ憲法を抱きしめて巨石のように動かない。
今年4月28日はサンフランシスコ講和条約発効70周年であった。
ロシアのウクライナ侵攻の真っただ中で日本は独立の日を迎えたのだが、大手新聞社の中でこのことを社説として論じたのは同日の『産経新聞』の「主権回復70年 占領の呪縛を解くときだーウクライナの悲劇から学べ」だけであった。
主権回復から70年を経てもなお戦後からの脱却ができていないのがわが日本なのである。