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この路線は駅と温泉を結ぶという観光線として開通したわけですが、
大利根温泉はすでに私が乗りはじめた頃にはすでに枯渇し、
モータリゼーションの勃興でバスで温泉へ行く人は見たことがありません。
前回はその途中停留所「新町」までお話しましたが、今回は終点大利根温泉までお話しましょう。
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新町を発すると、まためぼしい建物がなくなり道沿いに走ると、
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ご覧のような急峻な右カーブがあります。
東武時代は大変な難所。危ないので赤色回転灯が付いています。
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尺の長い日野REやらいすゞBUが日光いろは坂よろしくこのカーブを超えて視界が拡がってすぐに、
今は普通の戸建住宅しか見当たりませんが、昭和時代は2,3軒お店が並んでいるのが左側車窓から見えました。
ここもいかにもバス停を設けるにふさわしいある種の地域のセンターをなしていることが小学生にもわかりました。
その店のうちのひとつに、白地に黒文字で「日本盛」だか「白鶴」だか銘柄名とともにナントカ屋と書いてある看板を
掲げた酒屋があり、道を挟んでその向かい側に新町の次なるバス停「本郷」のポールが置いてありました。
現在あるまめバスの「本郷」よりややカーブに近いところ、「徐行」よりは手前にありました。
道下は低い畑地で現在は落っこちないように白い柵が設けられていますが当時は何もありません。
また反対側すなわち大利根温泉行きが通る側にはバス停は置かれていませんでした。
大利根温泉行きで降りる人、野田市駅行きに乗ってくる人が多々ありました。
『ちば県北農協』と刺繍の付いた作業帽かぶった農家のおじさん、
まだPP袋が一般的でなかった時代ヨーカドーのロゴがプリントされた黄土色の紙袋を抱きかかえた奥さんなどなど。
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すぐそばに理髪店がありますが、これは当時も同じ屋号商号でありました。
わたくしは数十年ぶりに当地を訪れ、非常な懐かしさをもってこの光景を眺めました。
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理髪店の隣にある香取神社の石造鳥居前を過ぎて本郷へやってくるまめバス。
いにしえの時代、小さく静かなポンチョなどではなく、
デカイ富士重工3EボディのいすゞBU青クリーム塗装の東武バスが轟音を上げてせまってきたのです。
古い神社があり本郷という地名から察するに、木野崎城が築城されるよりはるか前に
この地域は人が住んでいたであろうと思われます。
本郷を出ますと人家は全く見えなくなり、左側は畑、右は森しか見えなくなりました。
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本郷を発すると人の気配は消え失せ、この長い坂を下って・・・
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先にある樹木の覆いかぶさる暗がり坂を上っていきます。
現在は左側に「スポーツ公園」なる小綺麗な公園がありますが当時はそんなものありません。
道路は中央線など無い細々とした道でした。
左側は道路よりも一段低くなっていて葱やら白菜やらの畑しか一面見えず利根川土手が横一線によく映えておりました。
一方右側は逆に一段高くなっていてやはり畑、と森。
暗がり坂に至る途中にかつては、道を用水路というか小川というかそんな川が横切っていて、
網を担いでザリガニ釣りかなにかしている子供の群れがバスから見えました。
子供という生き物は自分より巨大物が動くと意味も無く凝視する癖がありますが、
その子供らも動きを止め、走り去ろうとする東武バスをじっと睨みつけてきます。
そのうち自分たちと同じ子供が一人、身を隠すようにオタク席に座っているのが分かり
「あ、誰か乗ってる! 一番前にっ」と叫んだ地元の童の声が、数十年の時を経てわたくしの耳に今なお残っております。
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坂を上るとちらりと利根川が見えるのは今も昔も変わりません。
この辺に「保木間の渡し」という渡し舟があって野田と茨城間で集散交易し、
茨城から流入した物資を「貨客混合停留場」として開業したばかりの野田線梅郷駅へ運んでいたそうです。
先の本郷も木野崎渡しという船着場にほど近い停留所です。
この路線は渡し舟をポイントにして人の乗降りを図っていたのではないかと思います。
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利根川が見えるところからほどなく歩くと「保木間浅間台」というまめバスのバス停があります。
東武時代は画像で言えば道路の左側にしかポールは設けられておらず停留所名は保木間を頭に付けずに
「せんげん台」と名づけられていました。後年「浅間台」と漢字に直されたかも知れません。
浅間神社が近くにあるところから名づけられたと思います。
白壁の建屋のようなものは当時は地味な色をした小屋のような佇まいでした。
東武伊勢崎線のせんげん台と異なりここで待っても電車は一本も来ませんが、
茨急のバスが忘れた頃にやって来るのは同じです。
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せんげん台の次が「保木間」ですが、まめバスの同名停留所の位置とわたくしの記憶の中にある位置が異なります。
まめバスの停留所は随分自然豊かなポイントに立っています。
自分の記憶だともうちょい人の気配のするところじゃなかったかなぁ、と。
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道なりに進むと左側に自販機しかないお店、そしてお墓のある信号機のないT字路。
このお店は確か公衆電話BOXの付いた立派な酒屋さんだったと思います。
停留所はこれのさらにやや先。
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左に福田第一小学校、右側が店でもなんでもない普通のお家のこの辺に立っていたように覚えています。
右に曲がれば旧福田村役場があったところでバス停が設けられていても何ら不思議のない所です。
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福田小学校前。東武バスの幕式運賃表示器には「福田小前」と書かれていましたが
車内アナウンスは「福田小学校前」と言っていました。
福田第二小学校というのが別場所にできたので第一と改称し、まめバスのポールには「福田一小前」となっています。
東武時代は道路の右側にのみ、まめバスと同じ場所にダルマ型が立っていて、
野田市駅行きに乗る人はバス停も何も無い左側で待っていました。
未だ真相不明の『野田事件』の被害児童はここから柏03の走る県道へ歩いていて被害にあった、といわれています。
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福田中学校前。バス停は農協と隣の福田駐在所の向かいに立っていて、
野田市駅行きに乗る人は農協の壁際で待っていました。
旧村役場と学校と農協、バス停は道の片側にしかなく、
集落を離れるとビニルハウスと蔬菜畑しか見えない車窓の眺めの有り様は
野12 東宝珠花線とそっくり同じなので私は野06と野12をよく覚えるようになりました。
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郵便局のあるこの信号機付交差点を左折し県道関宿我孫子線に入り、
「三ツ堀」停留所で柏03と合し、大利根温泉へ向かって路線は終わりになります。
真相が明らかになったにも関わらず地元は何もしない『福田村事件』の大惨劇が起きた三ツ堀の渡しは、
ここではなく次の停留所「香取神社」から歩いていった所にあります。
このブログをアップした9月6日はちょうど事件の起きた日です。
野田市出身者として愚かな罪を認め、心より被害に遭われた方々への哀悼の意を表します。
終点『大利根温泉』。温泉建物の目の前までは進入せず。ここで折り返ししていました。
東武バスは今も昔も『大利根温泉チサンセンター』とアナウンスしていますが、
バス停には大利根温泉としか書いていません。
終点にくると15分前後で折り返しするのが当時の行路表の常で、
往復両方とも乗ろうとしてもここでは乗せてくれず、
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道路反対側の野田市駅行きのバス停で待たされました。
また、柏03に乗り換えて柏へ行ったこともあります。
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ホテルにはかつて『ラドン温泉 大利根チサンセンター』というネオンが付いていました。
TBS「そこが知りたい」に出てきたときも闇に浮かぶそのネオンサインが映りました。
チサングループが倒産したので今では違う名前が書かれています。
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「ミツバタクシー」というタクシー会社が目の前にあって、野田出張所が無くなった後もしばらく存在していたと思いますが、
現在は畳んでしまって看板も錆びきってしまってます。
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折り返し待ちの間、一人でよく佇んで時間をつぶしたすぐ近くの神社。滑り台に座ってゲームウォッチで遊んでいたら、
人なつっこそうな地元の子が来て「なにやってんの?」と絡んできてゲームウォッチを貸してあげたところ、
バスの定刻がせまり「またねー、来週また来るから」と別れた幼き日の思い出。
あの子ももういい歳でありましょう。もしわたくしを覚えているならもう一度ゲームウォッチを貸してあげたいと思います。
昭和56年当時、運賃は野田市駅1番バス乗り場から小児90円で来ることができました。
今でも大人100円でまめバスで来ることができます。
大利根温泉はすでに私が乗りはじめた頃にはすでに枯渇し、
モータリゼーションの勃興でバスで温泉へ行く人は見たことがありません。
前回はその途中停留所「新町」までお話しましたが、今回は終点大利根温泉までお話しましょう。
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新町を発すると、まためぼしい建物がなくなり道沿いに走ると、
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ご覧のような急峻な右カーブがあります。
東武時代は大変な難所。危ないので赤色回転灯が付いています。
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尺の長い日野REやらいすゞBUが日光いろは坂よろしくこのカーブを超えて視界が拡がってすぐに、
今は普通の戸建住宅しか見当たりませんが、昭和時代は2,3軒お店が並んでいるのが左側車窓から見えました。
ここもいかにもバス停を設けるにふさわしいある種の地域のセンターをなしていることが小学生にもわかりました。
その店のうちのひとつに、白地に黒文字で「日本盛」だか「白鶴」だか銘柄名とともにナントカ屋と書いてある看板を
掲げた酒屋があり、道を挟んでその向かい側に新町の次なるバス停「本郷」のポールが置いてありました。
現在あるまめバスの「本郷」よりややカーブに近いところ、「徐行」よりは手前にありました。
道下は低い畑地で現在は落っこちないように白い柵が設けられていますが当時は何もありません。
また反対側すなわち大利根温泉行きが通る側にはバス停は置かれていませんでした。
大利根温泉行きで降りる人、野田市駅行きに乗ってくる人が多々ありました。
『ちば県北農協』と刺繍の付いた作業帽かぶった農家のおじさん、
まだPP袋が一般的でなかった時代ヨーカドーのロゴがプリントされた黄土色の紙袋を抱きかかえた奥さんなどなど。
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すぐそばに理髪店がありますが、これは当時も同じ屋号商号でありました。
わたくしは数十年ぶりに当地を訪れ、非常な懐かしさをもってこの光景を眺めました。
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理髪店の隣にある香取神社の石造鳥居前を過ぎて本郷へやってくるまめバス。
いにしえの時代、小さく静かなポンチョなどではなく、
デカイ富士重工3EボディのいすゞBU青クリーム塗装の東武バスが轟音を上げてせまってきたのです。
古い神社があり本郷という地名から察するに、木野崎城が築城されるよりはるか前に
この地域は人が住んでいたであろうと思われます。
本郷を出ますと人家は全く見えなくなり、左側は畑、右は森しか見えなくなりました。
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本郷を発すると人の気配は消え失せ、この長い坂を下って・・・
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先にある樹木の覆いかぶさる暗がり坂を上っていきます。
現在は左側に「スポーツ公園」なる小綺麗な公園がありますが当時はそんなものありません。
道路は中央線など無い細々とした道でした。
左側は道路よりも一段低くなっていて葱やら白菜やらの畑しか一面見えず利根川土手が横一線によく映えておりました。
一方右側は逆に一段高くなっていてやはり畑、と森。
暗がり坂に至る途中にかつては、道を用水路というか小川というかそんな川が横切っていて、
網を担いでザリガニ釣りかなにかしている子供の群れがバスから見えました。
子供という生き物は自分より巨大物が動くと意味も無く凝視する癖がありますが、
その子供らも動きを止め、走り去ろうとする東武バスをじっと睨みつけてきます。
そのうち自分たちと同じ子供が一人、身を隠すようにオタク席に座っているのが分かり
「あ、誰か乗ってる! 一番前にっ」と叫んだ地元の童の声が、数十年の時を経てわたくしの耳に今なお残っております。
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坂を上るとちらりと利根川が見えるのは今も昔も変わりません。
この辺に「保木間の渡し」という渡し舟があって野田と茨城間で集散交易し、
茨城から流入した物資を「貨客混合停留場」として開業したばかりの野田線梅郷駅へ運んでいたそうです。
先の本郷も木野崎渡しという船着場にほど近い停留所です。
この路線は渡し舟をポイントにして人の乗降りを図っていたのではないかと思います。
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利根川が見えるところからほどなく歩くと「保木間浅間台」というまめバスのバス停があります。
東武時代は画像で言えば道路の左側にしかポールは設けられておらず停留所名は保木間を頭に付けずに
「せんげん台」と名づけられていました。後年「浅間台」と漢字に直されたかも知れません。
浅間神社が近くにあるところから名づけられたと思います。
白壁の建屋のようなものは当時は地味な色をした小屋のような佇まいでした。
東武伊勢崎線のせんげん台と異なりここで待っても電車は一本も来ませんが、
茨急のバスが忘れた頃にやって来るのは同じです。
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せんげん台の次が「保木間」ですが、まめバスの同名停留所の位置とわたくしの記憶の中にある位置が異なります。
まめバスの停留所は随分自然豊かなポイントに立っています。
自分の記憶だともうちょい人の気配のするところじゃなかったかなぁ、と。
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道なりに進むと左側に自販機しかないお店、そしてお墓のある信号機のないT字路。
このお店は確か公衆電話BOXの付いた立派な酒屋さんだったと思います。
停留所はこれのさらにやや先。
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左に福田第一小学校、右側が店でもなんでもない普通のお家のこの辺に立っていたように覚えています。
右に曲がれば旧福田村役場があったところでバス停が設けられていても何ら不思議のない所です。
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福田小学校前。東武バスの幕式運賃表示器には「福田小前」と書かれていましたが
車内アナウンスは「福田小学校前」と言っていました。
福田第二小学校というのが別場所にできたので第一と改称し、まめバスのポールには「福田一小前」となっています。
東武時代は道路の右側にのみ、まめバスと同じ場所にダルマ型が立っていて、
野田市駅行きに乗る人はバス停も何も無い左側で待っていました。
未だ真相不明の『野田事件』の被害児童はここから柏03の走る県道へ歩いていて被害にあった、といわれています。
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福田中学校前。バス停は農協と隣の福田駐在所の向かいに立っていて、
野田市駅行きに乗る人は農協の壁際で待っていました。
旧村役場と学校と農協、バス停は道の片側にしかなく、
集落を離れるとビニルハウスと蔬菜畑しか見えない車窓の眺めの有り様は
野12 東宝珠花線とそっくり同じなので私は野06と野12をよく覚えるようになりました。
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郵便局のあるこの信号機付交差点を左折し県道関宿我孫子線に入り、
「三ツ堀」停留所で柏03と合し、大利根温泉へ向かって路線は終わりになります。
真相が明らかになったにも関わらず地元は何もしない『福田村事件』の大惨劇が起きた三ツ堀の渡しは、
ここではなく次の停留所「香取神社」から歩いていった所にあります。
このブログをアップした9月6日はちょうど事件の起きた日です。
野田市出身者として愚かな罪を認め、心より被害に遭われた方々への哀悼の意を表します。
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終点『大利根温泉』。温泉建物の目の前までは進入せず。ここで折り返ししていました。
東武バスは今も昔も『大利根温泉チサンセンター』とアナウンスしていますが、
バス停には大利根温泉としか書いていません。
終点にくると15分前後で折り返しするのが当時の行路表の常で、
往復両方とも乗ろうとしてもここでは乗せてくれず、
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道路反対側の野田市駅行きのバス停で待たされました。
また、柏03に乗り換えて柏へ行ったこともあります。
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ホテルにはかつて『ラドン温泉 大利根チサンセンター』というネオンが付いていました。
TBS「そこが知りたい」に出てきたときも闇に浮かぶそのネオンサインが映りました。
チサングループが倒産したので今では違う名前が書かれています。
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「ミツバタクシー」というタクシー会社が目の前にあって、野田出張所が無くなった後もしばらく存在していたと思いますが、
現在は畳んでしまって看板も錆びきってしまってます。
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折り返し待ちの間、一人でよく佇んで時間をつぶしたすぐ近くの神社。滑り台に座ってゲームウォッチで遊んでいたら、
人なつっこそうな地元の子が来て「なにやってんの?」と絡んできてゲームウォッチを貸してあげたところ、
バスの定刻がせまり「またねー、来週また来るから」と別れた幼き日の思い出。
あの子ももういい歳でありましょう。もしわたくしを覚えているならもう一度ゲームウォッチを貸してあげたいと思います。
昭和56年当時、運賃は野田市駅1番バス乗り場から小児90円で来ることができました。
今でも大人100円でまめバスで来ることができます。