京浜急行線の多摩川橋梁(東京都大田区から)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
少しだけ過去ログとダブる内容になりますが、
ご容赦ください。
人間の言動は、自己概念の通りになる傾向があります。
自分を優しい人と思ったら優しく、
笑顔があふれる人だと思ったらニコニコして、
めんどくさい奴だと思ったら人を困惑させ、
なんとなく悪い人間だと思ったら、なんとなしに罪な行為をしてしまうのです。
だからこそ、よき言動を発信するためには、
よき自己概念を持つ必要があるわけです。
ただし。
どんな人間にも、失敗はあります。
生きていれば、いろいろな場面や相手に出くわすもの。
当然、「その場に相応しい言動」が求められることがあるわけです。
たとえば「私は物事をハッキリ言うタチだから」という人がいたとしても、
喝を入れなきゃ思い知らしめられない人と、
深く傷つき、悲しみに暮れている人の前では、
いくら「これが自分だから」という思いを持っていたとしても、
ぶつかり方を変えなければいけませんよね。
このように、自分がどんな人間か知っていればこそ、
ただ「いい人」と思うだけではなく、その人の個性なりの配慮が求められるのです。
そこを分かっていないで、
「私はこういう人間だから」
「自分が悪い人間にならなきゃいけない理由なんてないでしょ!?」
こんなことを言わんばかりの態度を取り、
相手の感情を踏みにじる人がいます。
自分を「いい人」と思うのは自由です。
しかし、どんなに「いい人」でも、
間違えることはある。
その間違えを正さず、相手を責めてばかりでいる人は、
本当に「いい人」と言えるのでしょうか!?
あくまで私の意見ですが、
「いい人」というのは、相手の気持ちに合わせて、どこまで自分を「カスタマイズ」出来るかわかっている人だと思います。
個性だ平凡だ、〇〇系だとうるさい時代です。
ともすれば、流されなすい人ほど自分の立ち位置を見失ってしまいがち。
その慌ただしさが、自分は〇〇だと色分けし、
相手の気持ちや自分の過失に対する想像力を奪ってしまっている人が多いのではないかというのが、
私の見方です。
自分の「個性」を尊重するのは大切です。
しかし、どんな相手もまた、同じく「個性」を持った人間です。
その「個性」同士が削り合う関係ではなく、
2倍にも3倍にも光る関係を築くためにも、
「自己概念」について考え直し、
修正していく必要があるのではうでしょうか。