山茶花の花(東京都品川区)
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
ホンネとタテマエ。
人間関係における、大切な考え方ですね。
誰だって本心だけでいられれば楽でよいのですが、
現実には、ニガテな人や関わりたくない人とも、イザコザは起こさないほうがいい。
あるいは、大切にしたい人だからこそ、下手な衝突をしないために、ホンネとタテマエを使い分けるという場合もあるでしょう。
さて。
「お世辞」や「おべんちゃら」、「社交辞令」といった、
いわゆる「気持ちのないコミュニケーション」というのは、
多少であれば人間関係を上手く運ぶ潤滑油にはなりますが、
「とにかくおべんちゃらばかり」とか「八方美人はいいが、言ったことにはことごとく責任を取らない」といった、
いわゆる「口先だけの人」というのは、付き合っていて気持ちがいいものではありませんよね。
人間、「わからない」ことには耐えられない生き物ですが、
まさにこの口先だけというのは、「わからない」の代表例です。
「どんなことを考えて、どう思っているか」、これがわからないと、
結局、こちらはどう対応すればいいかもわからなくなってしまいます。
ゆえに、「わからない人」には、ものすごいエネルギーをかけて四苦八苦しつつ関わる、
これしかなくなってしまう。
だから、「わからない人」と付き合いたいという人は、なかなかいないのではないかと思います。
ただ、現実には、そこまでホンネがわかりにくい人はいません。
いくら「口先」と言っても、ホンネを包み隠すという意味ではなく、「そのまま言うとキツいホンネの言葉」をマイルドに言っている場合がほとんどです。
たとえば、かなり前の通知表では「優/良/可/不可」となっていた表現も、
最近では「たいへんよい/よい/がんばりましょう/あと少し」になっていることがあります。
もちろんこれは、「物心のない子供にこんな表現は厳し過ぎる」という配慮が大いにあったにせよ、
この「表現をマイルドにしている」というあたりは、まさに「ホンネとタテマエ」のいい例ではないでしょうか。
つまり、いわゆる「タテマエ」というのは、まるっきし嘘というわけではなく、タテマエから裏にあるホンネまで読めることも、多々あるわけです。
そこで、「相手の本当の気持ちを知りたい」と思うほど、タテマエを手掛かりにホンネを読み取ろうとするわけです。
ただし。
この「気持ちを読み取ろうとすること」自体が、そもそもどういう考えから来るものなのか、もう一度振り返ってみましょう。
たしかに、他人の本心を知ることは大切です。
しかし、いくら本心といっても、それがどれくらい当たっているかは、結局のところ相手にしかわからないのです。
いくら言葉のやり取りをしたところで、それもまた本心から出たものかもまた、わからないものだからです。
それなのに、一生懸命に相手を理解しようとする。
これって、理解する努力をする価値のある相手にしか、できないことなのではないでしょうか。
別な言い方をすれば、どうせ人を理解しようとするなら、その洞察力は、より大切な人のために使ったほうがよいのではないでしょうか。
「本心を知りたい」とか、「洞察力を磨きたい」と思うのは自由です。
しかし、「本心がなんなのか」という部分に囚われるあまり、洞察力を使うほど大切な相手かどうかという視点が抜けてしまっては、
時間と労力をみすみす捨ててしまうことにもなりかねません。
どうせ洞察力を付けても他人を完全に理解できないのなら、「洞察力ありき」ではなく、自分のできる範囲でやれることをやったほうがよいのです。
考えるだけ考えたら、あとはベストを尽くすだけです。
本心がなんなのかに振り回されては、何もできなくなってしまうのですから。
こんにちは。
今日も皆様、ありがとうございます。
ホンネとタテマエ。
人間関係における、大切な考え方ですね。
誰だって本心だけでいられれば楽でよいのですが、
現実には、ニガテな人や関わりたくない人とも、イザコザは起こさないほうがいい。
あるいは、大切にしたい人だからこそ、下手な衝突をしないために、ホンネとタテマエを使い分けるという場合もあるでしょう。
さて。
「お世辞」や「おべんちゃら」、「社交辞令」といった、
いわゆる「気持ちのないコミュニケーション」というのは、
多少であれば人間関係を上手く運ぶ潤滑油にはなりますが、
「とにかくおべんちゃらばかり」とか「八方美人はいいが、言ったことにはことごとく責任を取らない」といった、
いわゆる「口先だけの人」というのは、付き合っていて気持ちがいいものではありませんよね。
人間、「わからない」ことには耐えられない生き物ですが、
まさにこの口先だけというのは、「わからない」の代表例です。
「どんなことを考えて、どう思っているか」、これがわからないと、
結局、こちらはどう対応すればいいかもわからなくなってしまいます。
ゆえに、「わからない人」には、ものすごいエネルギーをかけて四苦八苦しつつ関わる、
これしかなくなってしまう。
だから、「わからない人」と付き合いたいという人は、なかなかいないのではないかと思います。
ただ、現実には、そこまでホンネがわかりにくい人はいません。
いくら「口先」と言っても、ホンネを包み隠すという意味ではなく、「そのまま言うとキツいホンネの言葉」をマイルドに言っている場合がほとんどです。
たとえば、かなり前の通知表では「優/良/可/不可」となっていた表現も、
最近では「たいへんよい/よい/がんばりましょう/あと少し」になっていることがあります。
もちろんこれは、「物心のない子供にこんな表現は厳し過ぎる」という配慮が大いにあったにせよ、
この「表現をマイルドにしている」というあたりは、まさに「ホンネとタテマエ」のいい例ではないでしょうか。
つまり、いわゆる「タテマエ」というのは、まるっきし嘘というわけではなく、タテマエから裏にあるホンネまで読めることも、多々あるわけです。
そこで、「相手の本当の気持ちを知りたい」と思うほど、タテマエを手掛かりにホンネを読み取ろうとするわけです。
ただし。
この「気持ちを読み取ろうとすること」自体が、そもそもどういう考えから来るものなのか、もう一度振り返ってみましょう。
たしかに、他人の本心を知ることは大切です。
しかし、いくら本心といっても、それがどれくらい当たっているかは、結局のところ相手にしかわからないのです。
いくら言葉のやり取りをしたところで、それもまた本心から出たものかもまた、わからないものだからです。
それなのに、一生懸命に相手を理解しようとする。
これって、理解する努力をする価値のある相手にしか、できないことなのではないでしょうか。
別な言い方をすれば、どうせ人を理解しようとするなら、その洞察力は、より大切な人のために使ったほうがよいのではないでしょうか。
「本心を知りたい」とか、「洞察力を磨きたい」と思うのは自由です。
しかし、「本心がなんなのか」という部分に囚われるあまり、洞察力を使うほど大切な相手かどうかという視点が抜けてしまっては、
時間と労力をみすみす捨ててしまうことにもなりかねません。
どうせ洞察力を付けても他人を完全に理解できないのなら、「洞察力ありき」ではなく、自分のできる範囲でやれることをやったほうがよいのです。
考えるだけ考えたら、あとはベストを尽くすだけです。
本心がなんなのかに振り回されては、何もできなくなってしまうのですから。
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