日曜日の8日は、菩提寺のお十夜法要に行ってきました。
お寺から遠賀川にかかる新しい橋,「なみかけ大橋」を渡ったすぐ近くで砂像展が開かれていたので帰りに立ち寄りました。
夏には海水浴客でにぎわうウォータースライダーや流水プールのある海浜公園の一角が会場です。
今年は明治日本の産業革命遺産群が世界遺産に登録されたこともあって、テーマが「産業革命」に設定されていました。例年のようなきらびやかな目を惹く構造物はなくて、イギリスを中心に始まった世界の産業革命の様子が表現されていました。
日本の産業革命の部では、三池炭鉱、炭鉱労働者、地元の官営八幡製鉄所の遠賀川水源地ポンプ場と八幡製鉄所など。
世界の産業革命の部は、海外からの製作者による紡績工場や、ロンドンの当時の風景など。異色は、テムズ川の汚染と貧困層がシンガポールの作家によって表現されていました。
一時中断していた芦屋の砂像展が参加数も増え、近年盛んになってきました。
会場の海浜公園
会場風景
その後 徒歩。石炭の需要の将来性に着目して鉱山の買取へ。ドラマは続く。
激動の維新の時代 政治や社会のシステムが大きく変わる時に柔軟に対応できるなんて羨ましいですね。
多くの男性がオロオロしているのに 素早い決断 ドラマとは言え 惚れてしまう。
ところで、
遠賀川を 小船で 川を上る 方法は当時 なかったのか?と 疑問に思う。
暴れ川の三羽烏に入っていないが、水量の大きさから推定して 古い時代から 堤防の工事は
続いていたのでしょうね。
石炭を海岸まで運んだ空船が 戻る際 人を乗せる・・・。
着物姿で女性が遠路・・に違和感もドラマだから許せるかな?
しかし 旦那さんは 駕籠に乗って来てはりましたな。馬車の方がベターかな。
時代考証さんの出番。
想えば江戸は元禄のころから遠賀川流域では石炭が採掘されていたのですね。ここ芦屋は、当時は「芦屋千軒、関千軒」の賑わいを誇った土地柄で、遠賀川が響灘にそそぐ河口です。
舟で運ばれる筑豊の石炭の積み出し港でもありました。
本支流合わせて約600キロの遠賀川水系は石炭輸送の幹線で、江戸時代福岡藩が掘削した人口の堀川は洞海湾への近道のためのものでした。
川ひらたと呼ばれる底の平らで広い舟がもっぱら主役で石炭運搬を担っていたようです。人は乗せなかったそうです。
芦屋に変わって洞海湾の若松港が中心になっていき、川舟から鉄道輸送に切り替わるのは明治の中ごろです。
芦屋生まれの芦屋育ちの主人は鮮明に川ひらたを覚えていますし、級友には船頭さんの子も多かったと聞いています。折尾駅には模型もありましたし、折尾高校には現物が保存展示されています。
詳しくは東京海洋大学の研究論文をご覧ください。
http://www2.kaiyodai.ac.jp/~kuse/introduction/pdf/08s_tanaka.pdf
書き切れないほどの思い入れもありますが、女学生のころに見ていた黒い流れの遠賀川は水が澄んで今は鮭も戻るようになっています。