雀の手箱

折々の記録と墨彩画

飛鳥幻想

2010年09月11日 | すずめの百踊り
 斉明天皇陵墓とほぼ確定される発掘が明日香村教育委員会から発表になりました。その名は牽牛子塚古墳ケンゴシヅカコフンです。

 第35代皇極天皇。重祚して、第37代斉明天皇(594~661)ですが、この女帝は、ここ福岡県は朝倉宮において67歳で卒然と崩御されました。皇太子中大兄皇子は荒削りのままの「木の丸殿」で母帝の喪に服し、長津宮で百済救援の指揮をとっています。

 希代の土木工事マニアの女帝は、毎年、大規模工事を企画し、何万人もの民に動員を掛け、「狂心の渠」タワブレゴコロノミゾと日本書紀にも記されています。
 酒船石はじめ奇妙な石造りの建造物が遺されていて、古代史の謎とロマンを数多く提供されつづける興味深い方です。今日においても、作家達の創作意欲そそっています。

 宮内庁は依然、越智崗上陵を斉明天皇陵としているようですが、前から学者達に指摘されていたように、今回の発掘で、陵墓の規模と形(八角形墳)から、牽牛子塚古墳が、かの女帝のおくつきであることが多数の学者によって支持されました。

 9日の新聞各紙はかなり大きくとりあげているようでした。今日も、先ほどお昼のニュースで昨日から一般公開されている牽牛子塚古墳の、今は定かに窺える古墳の八角形の周辺を、大勢の見学者が歩いている画像が流れていました。
 明日香村教育委員会の発表に拠ると、高さは4,5m.縦横22m。3段構成の正八角形になるよう基石は削られ、周囲に1mの敷石を敷き詰めた溝がめぐらされているということです。墳丘周辺の切石の形状から飛鳥時代後期の天皇陵に特有の八角形墳であることが判明したということです。二室に区切られて埋葬されている方も、DNA鑑定で間人皇女と告げられています。

 朝倉の地の斉明天皇を祭る恵蘇八幡宮の、裏山の小さな円墳も一時仮に埋葬された址と伝承され、御陵山とよばれています。
 3年前、蜘蛛が糸を張って、注連縄も朽ちかけた御陵跡を訪れた夏の日を思い返しています。


写真は07年7月27日の「もののあはれ」の物語に掲載した恵蘇八幡宮です。

木の丸殿跡 恵蘇八幡宮に関しては、多数の写真入でこのサイトで解説されています。 



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2 コメント

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狂心の渠 ()
2010-09-14 10:09:12
酒船石はじめ奇妙な石造りの建造物… 飛鳥を旅したのも懐かしく思い出され2007年のもののあはれの物語を読み返しました。ありがとうございます。
 夫の舒明天皇を偲び、八歳でなくなった孫を思い大土木工事、魅かれる女帝です。 お墓の謎が科学的に証明される日も楽しみです。
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まさきくあらば (ふくら雀)
2010-09-14 20:55:37
乙巳の変イッシの変(645)から大化の改新へ、眼前で蘇我入鹿が暗殺され、その二日後、皇弟に譲位。孝徳天皇の誕生です。その天皇の難波宮から、娘である間人皇后、中大兄らとともに飛鳥へ去り、翌年孝徳帝は孤立したまま難波で憤死(654)しています。
飛鳥板蓋宮で再び即位して(655)斉明天皇です。ここからの土木工事のエネルギーが凄いですね。
翌年には飛鳥岡本宮の造営。同時に多武峰の丘に一周する垣を築き、両槻宮を建て、香具山の西から石上山まで渠を掘らせ船で石を運ばせたり、また吉野に離宮を造営。
古いマイホームをリホームすることさえ思い立てないのとは異次元の発想と意欲です。この間には、古人大兄皇子が、有馬皇子が次々に非業の死を遂げて歴史の闇の中に消えています。

孫の建王の死を悲しむ長歌、短歌はじめ、万葉集に残された歌と斎明帝の像が容易には結びつきませんね。
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