今日は小野里純子さんという母の学生時代の友人の方が本を出されて、亡き母の代わりに横浜にお祝いに伺いました。
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20年間海外から日本に移り住んだ方々の救急の多言語カルテ作りから始まり、
草の根的な活動は小野里さんの温かなお人柄と熱い思いが周りを魅了し、老若男女ボランティアの人々、お世話に関わった外国人の方々含め1000人を超すものだそうです。
19年前に母を亡くした私にとって、久しぶりにお会いした小野里さんや同級生の方々に囲まれて、母を思い出し沢山涙を流してしまいました。
母が生きていたら。。あまりにも存在が大きくて大好きで、同級生のマドンナだったと惜しまれながら56歳で逝ってしまった母。
いないのが当たり前の日常でしたが、今日は生きていてくれたら私のこの19年間はもっと温かい肉親の情にあふれたものであったろうと実感しながら帰宅しました。
母親って別格なのですよね。
こんな100点満点にはほど遠い私でも母として存在していつづけることが大切なのでしょうか。。。
温かく、懐かしく、切ない思いに溢れる一日でした。
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20年間海外から日本に移り住んだ方々の救急の多言語カルテ作りから始まり、
草の根的な活動は小野里さんの温かなお人柄と熱い思いが周りを魅了し、老若男女ボランティアの人々、お世話に関わった外国人の方々含め1000人を超すものだそうです。
19年前に母を亡くした私にとって、久しぶりにお会いした小野里さんや同級生の方々に囲まれて、母を思い出し沢山涙を流してしまいました。
母が生きていたら。。あまりにも存在が大きくて大好きで、同級生のマドンナだったと惜しまれながら56歳で逝ってしまった母。
いないのが当たり前の日常でしたが、今日は生きていてくれたら私のこの19年間はもっと温かい肉親の情にあふれたものであったろうと実感しながら帰宅しました。
母親って別格なのですよね。
こんな100点満点にはほど遠い私でも母として存在していつづけることが大切なのでしょうか。。。
温かく、懐かしく、切ない思いに溢れる一日でした。
52歳のままで大輪の牡丹のように美しい貴女のお母様は何時も私と一緒に生きておいでです。Don't forget me not!とウェジットの食器など我が家のあちこちに
淑ちゃんを思い出させる品が有るからです。今でもあの声が、「女の港」の歌声が耳に残っています。純子