最後の日の朝、僕は椅子に腰掛けて、描きかけの絵を眺めながら、ぼんやりと思索に時を過ごしていた。まだ外はしらしら明けだったが、空は徐々にうす紫に なりはじめていた。一週間頑張ったおかげで、ようやく下絵程度のものが出来上がった、と思いながら、目の前の絵を見ていると、絵が何かを僕に語りかけたよ うに思えた。或る心地良い思惟の萌芽が、いまだ不明瞭なかたちではあったけれども、脳裏をかすめたような感覚に襲われた。そこで僕は、注意力を集中して、 目前の絵のなかの女たちを、凝視した。
──まだ何かが不足している。
と、一人で部屋に居るときの常で、ひどく真面目に考えはじめた。
──僕はこれまで、絵の中の空間と現実の世界の空間を、はっきりと分離してきた。僕の製作方法はこうだった。まず現実の事物の形態と印象を視覚的に記憶 する。これは形相把握と言ってもよい。把握された形相が、意識の中に曖昧な象として定着されていく時、その現実的形態は、僕の情緒的変更に色づけされつ つ、恣意的な変貌をとげて崩壊する。そして僕はカンバスに向かう。画布を前にして、僕は記憶にとどめた、漠然としてしか意識に残っていない事物の現実的形 態の心象を、僕なりの創造的意匠をもって、平面上に再現しようとする。つまり僕は、心象をこそ質料とみなしてきたのだった。……
思考を中断して、僕は目を閉じて、額に手をあてて、いらだつ頭脳の働きを静めようと努めた。しかし、努めれば努めるだけ、とりとめもない考えに取り憑かれていくのだった。そうしているうちに、僕には少しずつ、自分が何を考え、何を欲求しているのかわかりはじめた。
「現実の世界と絵の中の世界」
と僕は呟いた。
そのとき突然、僕の心のなかにはげしい痙攣が起こった。あたりに立ち籠めていた濃い霧が一瞬にして消え去って、視界がいっきにひらけて、雲間からのぞく 太陽の光によって光景がぱっと輝き鮮明になるように、僕の心の靄《もや》もたちまち消滅したのだった。僕は望んでいた。この絵の主題が、現実の主題となる ことを。この絵の世界が現実の世界となることを。自分の欲求していたことに気づいて、僕の胸は熱くなった。
そして僕は決心した。できるものなら、この絵とそっくり同じに、現実を作り変えようと。
……喜びのあまり思わず笑みがこぼれた。僕のようなこれまで決してまともに現実にかかわろうとしなかった者が、はじめて自らの企みによって、現実にかかわろうとしている、そう思うと、妙に愉快になった。
──この絵と同じものを、現実という大きなカンバスの上に、この手で創造しよう。それこそが僕にとって真の創作にちがいない。祐子とさつきと典子を、か たい絆で結びつけてやろう。そして僕は彼女たちを眺めるのだ。そのときはじめて、僕はこの絵を僕に描かせた真の秘密を知るだろう。
僕は立ち上がって、窓を開けて、朝の空気を胸いっぱい吸い込んだ。そして、さわやかな冷気につつまれながら、『昇天してゆく女たち』の絵を、振り返って見た。朝日に照らされたその絵を見て、僕は戦慄した。
(『愛は哀しみよりもなお深く』(2)より)
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