古びた祠の前に色褪せた石碑が大小群がり、腰丈ほどの碑に『庚申』と彫られている。
数歩離れたところに、土に埋もれた句碑がある。福禄寿の頭によく似ている。句は草書で刻字されている。
頭上で枝を広げる枝垂れ桜は、誇らしげに花を咲かせているが、艶のない樹皮に覆われた幹の太さと枝振りは風霜の跡も窺わせている。
都代子は句碑に軽く手を触れ、黙礼し、信章は黙って措辞を読んでいる。
祠の傍らに杉林があり、斜面の中央を幅半間ほどの石段が真っ直ぐ上に向かっている。傾斜は急だ。
都代子は登りはじめ、信章が後を追う。
百段を越えただろうか、踏みしめて進むうち、息切れがしてくる。途中で、息をついて、
「菫が咲いている」と都代子は言った。
信章は示された方向を見る。
石段を上がるにつれて、最上段の縁から社の切妻屋根が見えはじめ、登りきると、能舞台ほどの狭い平地に立った。
賽銭箱がある。振り向くと、彼方に雪をいただいて峰が連なっている。
空には一点の曇りもない。
ふたりは枝垂れ桜を見下ろしている。まるで花色の雲の上にいるような気がする。空中に弾けた花火にも似て、淡紅の桜の花は、滝となり、地上に流れ落ちていく。
「俳人もこの光景を見たのね」と都代子は言った。
心の凝りがほぐれていくような気がした。街を離れて二日目だが、都代子はようやく情景に感応できるまで心にゆとりが出てきた。
帰りの石段を、信章と手を繋いで下りながら、
「あの桜の花びらを描きたい」
と都代子は呟く。
「『転ぶところまで』という表現はすごいな」
「ここまで来て、これ以上先に進むと危ないな、と感じて、きっと引き返したのね。でなかったら、『いざさらば』なんて句を頭に持ってこないもの」
「諧謔も素晴らしい」
「一生続けたとしても、きっと私だったら『雪見に転ぶところまで』なんて読めないわ。表現者としての覚悟が違うもの。乞食同然の姿で命懸けで雪を見に行くことも辞さない。そんな迫力があるわ」
無口な都代子が、饒舌になっている。
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