拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  蓮華国

2021年11月17日 | 観自在

  私は『仏教』という抹香臭いモノを、現代人の感覚にマッチした捉え方…というようなものを模索している。

  でも、あ〜だこ〜だ妄想しているうちに、気がついたら仏祖と言われる人々が提供した発想にドハマっている自分を観る。

  そういっても私が体験した仏教界は、その界の何百分の一…程度であるし、もうすっかり忘れてしまっている…と思い込んでいたら

  どっこい、居士林で耳にタコができるほど、読まされた、『四弘誓願』やら『白隠禅師坐禅和讃』なんかは、もう拭い取ることが

  できないほど、私の身に染み込んでしまっているようなのだ。

  先日も『煩悩』・・・ということを妄想していたら、いつの間にか『坐禅和讃』の最後の一節

  『 当処すなわち蓮華国 此の身すなわち仏なり〜』・・・と自動的に我が愚脳は口ずさんでしていまっているではないか。

 

  まぁ、考えてみれば、とにかく仏祖たちが工夫に工夫を重ねてあみだした発想であるから『ある事態に対して』じつに適切な

  イメージ言語を提供してくれている…のだとわかる。

  蓮華という花は、煩悩という泥沼なくては咲かすことのできない花を表している

  煩悩があるからこそ、美しい蓮の花を咲かせる・・・これって仏教の深くて素晴らしい真理を表していると思う。

  そりや〜、此岸から彼岸へ渡るには『煩悩無尽誓願断』と煩悩をぶった切る、いつでもぶった切る事ができる自分を見つけなければならない、

  映画マトリックスで先輩のモーフィアスが新参者のネオにビルから別のビルに一足飛びにジャンプするのを教えるシーンのように…

  そこが分かれば煩悩を肥やしに美しい花をさかす『蓮華』が仏様の台座になっていることがわかるのだと思う。

        

  この写真は15年前、初めてデジカメを買って撮ったカラー写真で、『色即是空』ではないが、それまで白黒写真しか撮ったことがなかった

  自分に『空即是色』的な色の存在に開眼させられた一撮で、蓮華こそなかったが、それはそれでまた美しい泥池の風光であった。

  

  

  



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