前回ブログで、『時間』の問題は『自観』の問題である・・・と、『東洋自分なり研究所』所長である私は案外新説を発表した。
禅者にとって真実の『時間』は『瞬時』と『永遠』が自在している状態で、それは『自観』を深めることであるので
『時間=自観』を一目で表す方法がないものだろうか・・・と思案して私の机前の壁に掛かっている仏画を観ると・・・
『天上天下唯我独尊』の仏陀の腹部に『䦙』の字が時・間、生・死の中心であるが如く鎮座しているではないか。
この仏画は35年以上も前から私の部屋に掛かっていたが、『䦙』の字について今やっと私なりに腑に落ちた…ということか。
辞書によると『䦙』は『し・じ』と発音するので、これ『䦙』一字で、『時間と自観』を一気に表していると私は観た。
実は、この仏画はカレンダーとして制作されたモノで、いまとなっては作者不明であるが、相当な般若智の持ち主ではないだろうか。
先日書いた「喫茶去」という公案(禅問答)も、『まぁ、お茶でも一杯』…と茶をすすめるのは、
『時間』を離れずにして時を楽しむ『䦙』への誘いと言える。
摩訶『䦙』観・・・は、『中国6世紀の仏教徒、天台智顗が著した"摩訶止観”〜禅宗の「不立文字」を旨とするいき方とは違う
天台宗における禅修行の作法・心得、禅思想原理を体系的に説いた指南書』から拝借した馬骨流禅思想原理名『摩訶䦙観』である。
ちなみに岩波文庫『摩訶止観』解説によると、
比叡山の『摩訶止観』の修行法こそ法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などを輩出した由縁であり、日本仏教各宗の淵源である…
趣旨が書かれている。つまり彼等各宗派の祖師方は皆、『摩訶止観=禅』を修行した上で浄土宗、日蓮宗や曹洞宗など各宗派を
立ち上げているわけだ。私自身は以前より、仏教界における各宗派のいき方に何の違和感も持っていない。
念仏であれ、坐禅であれ自我を無我に導き、仏という真我との対面にいざなう方便に過ぎない・・・と思っている。
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