『禅』というのはシンプルに『問う』という『人間の本質』を肯定した姿・・・なのでは。
反対に『神様、仏様』という時、『信じる』という形で人間の本質である『問』を奪ってしまったか?・・・
2017年、私は65歳をスイスでむかえ定年退職となり、はじめて観光目的の帰国で未だ行ったことのない処を中心に旅をした。
たぶんこの旅は、これまで抑えていた様々な私自身の『問』が開放された旅ではなかったかと思う。
鳥居で有名なあの伏見稲荷大社で、これでもかとびっしり立ち並ぶ鳥居をくぐる中、『考えるな漢字ろ!』に至る縁が芽生え、
京都博物館ではたまたま国宝展示を行っていて、縄文時代の有名な『土偶』等に対面することができたのと、
今日ここで問題としたい国宝である如拙の禅画『瓢鮎図』との出逢いもこの旅での収穫であった。
『瓢鮎図』は禅書ですでに馴染んでいたが、本物に対面するとは…。
この禅画は室町幕府4代将軍足利義持が「瓢鮎図」をテーマにして禅問答を決行。(当初は衝立(ついたて)仕立て、現在は掛幅(かけふく)に改装)
将軍の命で禅僧31人が禅問答をした記録の漢文がこの絵の上方に直筆で書かれている。(上図は人物を拡大したため漢文をカット)
この国宝となっている『瓢鮎図』は、様々な意味で興味深いものがある・・・。
言ってみれば、15世紀の日本において将軍様が水墨画の祖となる如拙に『瓢鮎図』を描かせ、31人もの禅僧にそれぞれ『答え』を書かせたわけだ。
これが巷で、国民の間で評判にならないわけがない・・・だろう。
『問』という字を見るとき、門構えがあるが、これが仏(悟り)に至る『道』への門でなくてWhat else ?・・・と私は思う。
こうして、『問』文化が日本に浸透していった結果が様々な日本における『道』文化の礎となったのであろう。
外国人が日本に来て、快さを感じる原因の一つとして、『問う』という人間の本質が開放される・・・という事があるのかもしれない。(合掌)
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