先日Youtubeでお坊さんの話を聞いていると、お寺が日本全国でおよそ7万5000ほどある…とのこと。
コンビニが4万店ほどなので、それからイメージすると寺数がいかに多いか、実感できる。
そのうちの一つの寺に私はお世話になって、現在の自分があるのだなぁ…なんて考えると
私の人生にとって『寺』の存在は非常に重要な意味を持ち、感謝にたえない気持ちでいっぱいだ。
別に難しい入門試験があるわけでもなく、月々の月謝も雀の涙…程度で、よくぞ私なんぞを継続して受け入れてくれたものだ…
確かに、私が通った円覚寺には一般の修行者を受け入れる『居士林』というシステムがしっかり出来上がっていたが
禅寺のモットー『来る者拒まず、去る者追わず』は実に徹底して、後に居士林の先輩が『年に100人ぐらい
入門しても、残る者が一人いればいいほうだ…』と私に教えてくれたが、その年に私がそこに残った一人であったからだと思う。
自分なりに、『寺』の存在意義みたいなものを考えた時、『寺』という漢字自体に…臨済禅師の『喝!』に匹敵するモノを私は見出した。
(というか、先人は『寺』の字にそういつた風に解読する人間のあることを織り込んでいた…とも考えられる、故に『漢字は東洋の方程式』馬骨論)
『寺』とは… 土・寸と書いて『ドスン!』と腑に落ちる・・・というより、『不二』落ちる『場』を意味する。
人間の如何なる難問に対しても究極的に『ドスン!…と不二落ちる』、人をして『不二の法門』に導くのが『寺』の機能なのではないだろうか。
その『寺」に『日』が加わると『時』になり、それは人生の『時』を表し、その間に『ドスン!と不二落ちる』ものを覚醒せよ…と教えている気がする。
その方法を伝授する時空間を『寺』と呼んでいる。
フランス語で『神殿』、『プロテスタントの教会』もTemple(テンプル)と言い、やはりTemps(時間)が含まれているのが面白い。
いずれの宗派であろうと『ドスン!と不二に落ちる』ものを伝授する時空間が『寺』…
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