私が60歳のとき迎えた『還暦』は、以来私にとって佛道を究明するにあたり非常に重要なキーワードとなり、はや13年目を迎えようとしている。
特に『還暦スキャン』という造語でもって、自己の佛道の進捗状況を過去にむけて俯瞰し、私の身辺に起きたすべての出来事が偶然ではなかった事など
を再確認する術(すべ)としてのアイテムとして非常に重宝し、このブログで公開しているが、果たして利用している人はいるのだろうか?
しかし、考えようによっては、『還暦』という言葉自体がもともと佛語であれば、60歳の人に限定した『還暦』であるはずがなく、
私のいう『郷里・サトリ』に向かおうとする回帰本能への進捗具合の最期のチェックポイントとして仮に60歳を『還暦』としたのだろう。
その『還暦』も13年目を迎えてみると、やはり自分の中では少しずつ深化しているようで、
『還暦』というのは、明らかに『観暦』した自己を顧(かえり)みる行為であることに私は気づいてきた…。
この『観暦』の『観』は『観自在・観世音菩薩』の『観』であり、『自他不二』の自己を『観』じた自己の歴史の『還暦』なので
『還暦』は、つまり『観暦』であって、単なる思い出を振り返る行為の『還暦』ではない・・・ということなのだ。
最近、量子力学など科学の面で『観察者』の存在が非常に重要になっているが、それよりはるか以前の釈尊が悟りを開いた時
『自他不二』の感覚は主客の無い『観覚』として体得したであろう、そしてそのことは釈尊誕生の際の『天上天下唯我独尊』の宣言が
後に『悟り』として成就することを時空を超えて『観』知っていたことを意味しないか?と私は思う。
そうした『観暦』を想う時、私は映画『インターステラー』で最も印象に残るシーン、本棚の本がポルターガイスト現象の如く床に落ちる現象に
対して、それを見逃す事なく、『観』を働かせた娘が数十年後に、父親からの貴重なメッセージとして、その現象を解読したいきさつというのは
時空を超えた『観暦』の一つの働きとして『観』と『観』を結ぶ赤い糸としての『観暦』を思わずにはいられない・・・。
まぁ、真実の自己を観る際に、『自』を『おのずから』現象と『みずから』現象の合致が『観』を生じ、無位の真人たる『自分』を観るのだろう。
『観暦』というのは、この写真のような、ふとした瞬間に垣間見る現象として現れる・・・
2024年6月26日のブログ記事〜映画『インターステラー』と『間』の方程式
映画インターステラー 『インターステラー』とは『星と星の間』という意味だそうだが、時空間の『間』でもある。
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