『東洋自分なり研究所』において、あまり深く考察していないにも関わらず、仏が持ち示す『華』と『幸』の関係がこのほど観えてきた。
それは『幸』の字を昨日、パッとみた時、観たママ感受したのは『土』と『咲く』・・・という閃きによる『馬骨流解字』で
『土』の下から、いずれ『咲く』べき『苗』が備わってる状態がすなわちすでに『幸』で、それを現実に咲かした華を自分で
持ち示して観ること・・・それこそが本当の『幸』の第一歩であるという、『馬骨流現代仏語解字』が出来上がった。
私は以前は、釈迦が華を持ち示した逸話『拈華微笑』に於いて、それは『華』でなくとも何でも良かったのでは…と思っていた。
しかし、人間は誰もが、咲かすべき『悟りの華』を持つ・・・という風に『拈華微笑』を解釈した時、
仏が持ち示すのは『華』でなければならず、それを咲かすことが人間にとっての『幸せ』であると解釈すると
『仏教』も『悟り』も理解しやすくなる気がする・・・のだが。
驚いたのは本物の解字で、『新漢語林』によると、『幸』は手枷の象形・・・であるというのだ。
まぁ、たしかに仏教では『執着』を強く戒めているが・・・。
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