拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  南無 『還暦スキャン』

2022年09月23日 | 観自在

  たぶん禅というのは、仏教をより新しい感覚で、時代にマッチした形を創造し、衆生にアピールしようとしている菩薩の性(さが)の働きなのでは。

  だから禅は『無』を強調し、いかなるイデオロギー的なものから遠ざかり、真に自由であろうとする。

  それで世界に少しずつ浸透しつつあるのだろう。

 

  私も既成の仏教用語を廃して何か新しい発想を・・・と思いつつ、その既成の言葉の中に、新しい解釈が『再解釈』として通用するし

  むしろその方が、言葉の理解を深めるだけで、新たに新語を増やし、いたずらにそれを覚えるよりはよほど創造的である気もする。

 

  『南無』という言葉は、辞書によるとサンスクリット語『namas』を中国語に音写した言葉で『帰命』の意を表すという。

  では、『帰命』とは何かというと『仏の救いを信じ、身命を投げ出して従うこと、帰依ともいう。

  私の世代(私は70歳)だと、子供の頃、マンガや映画やテレビで時代劇がまだ盛んだった時代で、

  例えば、忍者が手で印を結び、『南無・・・・』とか、呪文的に言っていたような??気がするし、

  そうでなくても『南無阿弥陀仏』とか『南無妙法蓮華経』とかは自然と見聞きしてしっているが

  今の若者たちは、『南無』・・・など知らないだろうか。

  私は『悟り』は『郷里サトリ』といっている都合上、『南無』が『帰命』という訳語であることが腑に落ちる。

  私たち人間の『郷里』が『命』であることは理屈的に納得できるし、その自分の『命』に『法(灯明)』があれば

  釈迦が死の間際に、弟子に『自灯明・法灯明に従って、他のものに従うな!』・・・と言い遺した事にもうなずける。

 

  その『法』である『郷里』から音信が絶えず我々に発せられ、『響鳴』しているのだが、その『琴線の音』を聞き取る能力が

  目覚めないのか、人生雑音でかき消されているのか・・・。

  私がこの歳になっても、覚えている子供の頃の『記憶』というのは、『郷愁』という形の『郷里からの響き』であった。

  『悟り』というのは私達にとって未来に起こる『未知』のことではなくむしろ『過去』にすでに音信されている事柄なのだ。

  だから『観世音』、『観自在』であり、未来も過去もそれに関しては『時の壁』は無いのだと思う。『還暦スキャン』はその意味で響く。

 

   

  コロナ罹患から2週間目を迎えるが、何となくだるい気がするのはやはりコロナのせいなのか?

  明日土曜は2度欠席したバトミントン日、体内に残る邪気を多量の汗とともに流すつもりだ。

     

      カボチャもダリアも秋を彩る色々。相方の能天気のキャラにはかなわない馬骨

 

  



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