拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

  克己心の向こうにある『郷養』

2023年12月26日 | 東洋自分なり研究所

  前回ブログにあげた『十字架上のキリスト』像の写真を観ていると、『永遠の痛み』・・・のようなものを感じて、

  はたして、坐禅している『仏陀』はどうであろうか・・・などという妄想が沸いて検討してみる。

         

                                   

  『痛み』に徹底してこだわる馬骨居士・・・としては、 2022年3月21日のブログ記事〜『悟痛』と覚悟

  この『坐禅する仏陀』の写真を見るにつけ、『澄ました顔』というか『しれっとした顔』というか、『足痛』というような低レベルに『我関せず』の

  仏陀の姿勢にため息を漏らす馬骨で、坐禅をしたことのない人間には別になんとも思わないであろう『坐』というのは、幼少よりヨガでもやってない限り

  『半跏趺坐』にせよ『結跏趺坐』にせよ40分以上坐ることになれば『足痛』と対面することになる。

 

  『だから』・・・と言えば、あまりにも短絡的かもしれないが、『十字架』も痛いが『坐』もじつは『永遠の痛み』の中なのである。

  禅寺の僧堂での禅修行は、列に並んで『坐』するのであるが、自分のこの『痛み』は隣に坐っている者の『痛み』であることは歴然で、

  共に苦しさを分かった仲間・・・という意識と、『痛み』に立ち向かう自分の『克己心』には『自他』を超えた『慈悲心』の芽生えが起こる。

  そこに、いわゆる『教養』とは真反対の『プライド』という『似非尊厳』を脱ぎ捨てた末の『郷養』を養う姿が『坐』なのではないだろうか。

  『郷』は『本来とか真実』の意味で、教養をひけらかす自己であれば到達不可能な『場』なのだ。

 

  『坐禅』の『足痛』に関して『無意味』では無いことを強調せんがために、苦しい言い訳のようになってしまったが、

  『クリスマス』ならぬ『苦しみます』が『慈悲心』を芽生えさせる点では、仏教・・・ことに『禅』仏教はキリスト教に共感するものがあるのかもしれない。

 



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