うちの父は、若い頃に、日蓮正宗創価学会の御本尊を頂いたが、生前の本人や、母に聞いたところでは、父はその御本尊を焼くなり捨てるなりしたという。
その後しばらくは本当に何もなかった。父は前妻と別れ、裁判まで起こされて、酷い目に遭う。
業罰の現証とは、そんな生半可なものじゃ済まなかった。
それから十数年経ち、母と巡り合うが、その日、胸騒ぎがした母がバスで行きなさいと言っても聞かずに、僅かのお金をケチり、その日に限り自転車で会社に向かい、案の定、車に撥ねられた。
頭と体を負傷し、大けがで半身不随となる。本人も私達家族も、大変に難儀を極め、非常に苦しんだ。
父の変わり果てた姿を見て、おばあちゃんは大変に心を痛め、がっかりしていた。父は一言「こんな体になり、申し訳ありません」とおばあちゃんにひた謝りに謝って語っていた姿を、うちの母も見ていた。この時、その父の謝る姿を見て、母は、まだましな、少しはこの時点までは父が改心して謙虚に反省していたのだ、この人は、懺悔のかけらは持っている人間だったのだと、まだ時間は掛かるがやり直せる、と少なくとも思ったようだった。
しかし、無事退院し、川崎に越した頃には、父は、又もや慢心を起こし、幼い私と結託して、当時から宗教を馬鹿にしていて、「のんのんさま」と言って罵るようになった。
ある日、父は、あの小さな仏壇を捨ててこい、と言って、母に叱り飛ばした。私も当時、知らず知らずのうちに、「捨てろ、捨てろ」と言って囃(はや)し立てた。
とうとう母は、御本尊様だけは大事にお巻きして別の場所に隠して持ち、それだけは取って置き、当時我が家にあった小さな仏壇のみをゴミ捨て場に捨てた。
私は学校へ行くときに、ゴミ捨て場におもむろに捨ててあったうちの仏壇をこの目で見た。別に深い感慨もなく、むしろ、共産党は宗教とは無縁であり、宗教はアヘンだ、御法度だ。仏壇なんてうちにあっては絶対にいけない、それは弱い者のする事、父の信奉する、日本共産党の御指導・お教えの通りに進む我が家だからしょうがない、むしろざまあみろ、清々した、といった、父の言う事のみを鵜呑みにした、言わば詐欺師に騙された、子供ながら正義感で酔い痴れていたのかも知れない。
後年、その事で私は大変に思い悩み、後悔・懺悔・絶望の淵に打ち沈んだ。何より、ゴミ捨て場に打ち捨てられ、放置されていた、あのお仏壇が物悲しく可哀想であり、勿体ないことをしたと思っても後の祭りだった。悲劇的な最期の運命を遂げた、うちのあの哀れなお仏壇に、泣いて同情し悔いても、二度と戻っては来ない、諸行無常の理(ことわり)を示されるのみであった。
その後、父も亡くなり、改めて今度は故人の為に母が、かなり奮発して数万円の比較的高めの立派なお仏壇を買った。
父の死後、父を懇ろに弔い、お仏壇を仏間に御安置し、日蓮正宗の、母が昭和三十年代に御下附された御本尊様をその時は無事に十年振り位かで祀った。今は正真の御法主日如上人猊下様の御本尊様を祀り、そのお仏壇と共にうちは春夏秋冬、風雪を忍び、今に至る年月を過ごしている。
まるで父が、反対者だった父が、今では何か、逆に仏法を司る化身のような存在である。
父が菩提寺の郡山の日蓮正宗無量山寿海寺に眠っていなければ、私とて、このお寺とは縁がなかった筈だ。果たして日蓮正宗に入信したかどうか、これも縁としか言いようがない。
父が生前、暴君のように振る舞い、仏壇を捨てさせた癖に、今ではあべこべに父が仏法の守護者の如くに菩提寺の寿海寺に眠っているのは何か腑に落ちない、と以前、広布推進会でいわき市の大華寺に向かう道すがら、車中でS楽さんに言うと、先日の学会員への折伏のブログ記事でも私が書いたように、今では大恩人と公私共にお世話になりお慕いするS楽さんが、
(S楽さん)「今も○○君(私)とお母さんの事を”草葉の陰”から○○君のお父さんがじっと見つめて見守っていてくれているんだよ」
と言って、私が感動して涙ぐんだ、と言うあの有難い御話につながるのだ。
古来からも、雷神、祟り神だった菅原道真公が改まって学問の神様として太宰府に祀られたり、無念の死を遂げた鍾馗(しょうき)さんが今では五月節句の神様に昇格して、無病息災を祈る善神となったりと、そういう事はよくあるらしい。私も今では父の御供養を買って出ているし、いつも五座三座の回向では父の事、他にもおばあちゃん、おじいちゃん、叔父さん等の既に亡くなった方々、親戚の事や飼っていたペット・動物達の御霊を、折に触れ他人様の御命日をも手厚く御祈念している。
それらが、父の、御本尊不敬の罪、御本尊様の右のおん肩におしたための、若悩乱者頭破七分の最終的な解答・答えである。御本尊様の、左のおん肩には、有供養者福過十号、とある。現に、現在の母と私共の実生活の、御本尊様に畏れかしこまり、敬いつつ送っていて日々現れているこの現証・功徳は、今までの功徳以上に、良き報せは良き報せ、良き訪れは良き訪れとして、これからも次々と現れて来る事であろう。
私たち家族は、御本尊様を御不敬する事が、どれ程罪作りで、罰当たりかを、身を以って体験している。否、それは、当然うちだけではなく、現代日本でも、先般、平成七年一月十七日午前五時四十六分に起きた、神戸の、阪神・淡路大震災では、創価学会によるニセ本尊配布の折、大量の日蓮正宗の御本尊が御不敬されて、打ち捨てられた時、「日蓮を用ひぬるともあしく敬はゞ国亡ぶべし」(種種御振舞御書・御書一〇六六頁)の大聖人様の御金言そのままに、忽然と天地は震え、天地の神々は怒り狂い、大火災に苦しみ、塗炭の苦しみに喘ぐ人々の断末魔に創価の大罪が断罪された事実、実証・現証、業罰・現罰を、経験上、事実上、現実の上からも、曲がりなりにも経験し、知っている。
以上、御本尊様の左右のおん肩に認(したた)められている、深い理由と言うか、現実に起きた現罰・現証について、縷々、述べた。
それゆえに、名前が名乗れない、卑怯者である訳、理由がその体を顕わしている訳dすからね。
報告がてら、事実を書き残して置きます。
以上。
『仏壇を捨てさせた癖に、今ではあべこべに父が仏法の守護者の如くに菩提寺の寿海寺に眠っているのは何か腑に落ちない、と以前、広布推進会でいわき市の大華寺に向かう道すがら、車中でS楽さんに言うと、』(私の記事引用終)
Unknown (Unknown)
2023-09-29 00:53:39さん、此の引用文章を見ても判らないんですか。この御方、S楽さんは立派な日蓮正宗法華講信徒、それも、昭和の五十二年路線を過てる創価が引き起こし、惹起して居った最中、この御方は、颯爽と創価を去り、日蓮正宗へと、新興宗教創価から、日蓮正宗御宗門へと、颯爽と自身が気付き、寝返った、その当の本人なんですよ。
大体、そんな、このお寺の重鎮でもあるべき御方に対して、「邪宗」「邪教」の発想だ、などと、その御方の思想信条まで思いやり気付けずに、貴方はそのままで済むとお思いなのでしょうか。
S楽さんは、第一次創価学会問題が起こった頃からの、いち早く創価の異常性に気付いた、昭和の頃の生き証人でもあります。
その御方を謗る事は(邪宗教だと)、自分にそれらの言葉がそっくり返って来ます。
還着於本人です。
それに、随方毘尼という言葉を貴方は知らないのですか。
それに、御本仏宗祖日蓮大聖人様は、御書、「太田左衛門尉御返事」(一二二二頁)に、
「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すなれば、強(あな)がちに成仏の理に違はざれば、且(しばら)く世間普通の義を用ゆべきか。」
現代語訳、『通解』
「私の法門は四悉檀(仏の教説を四種に分けたもの。①世界悉檀②為人悉檀③対治悉檀④第一義悉檀)を心に懸けて申す法門であるから、必ずしも成仏の理に違わなければ、少しは世間一般の義(厄など)も用いてよいのである。
(以上。出典『御聖訓一読集』令和四年度版・奉祝 宗祖日蓮大聖人御生誕八百年)[諸難を乗り越える信行])
とありますように、多少の、時代に合わせ、その時の風俗に合わせ、その場、その時、その場合に合わせても一向に構わない、その場その場での、御教えの改変、改革、等々を認めているのが、本来の踏襲の教義です。
それを認めないならば、今、現今の創価の言う、言うなれば「途中の人師論師は認めない」との言説と、同一ではありませんか。
私は、一見、このような、日蓮正宗信徒を思いやった風の貴方が、最初から、我々日蓮正宗の信徒の一分であると、思って居りましたが、どうやら、私の買いかぶりであったと思い直しました。
あなたは、当宗信仰者ではない。日蓮正宗信徒を名乗る、エセ信者、おそらくは創価の回し者である、と見抜いた。
それは、その後の二度目に登場した、創価信徒丸出しの情けないコメント欄のコメンターと軌を一にする者であり、やはり、時間的にも、正真正銘の同一人物、それが、いわゆる、Unknown (Unknown)を名乗る、一連の名無し氏による、自作自演のパフォーマンスであったと、今は喝破して見抜きました。
人を騙そうったって、そうはゆかない。どんなに日蓮正宗信徒を名乗るが如くの、見せかけの、御立派に見せた所で、その所属性、在所、身分はすぐばれる。どうだ、思い知ったか、此の創価の名無しめが。
とにかく、これからは、名無しは一切、コメント欄に表示されたら、自身を名乗る勇気すら持ち合わせていないとこちらが判断を下す以上、削除に次ぐ削除へと、私を駆り立て発動してゆく事を、ここに於いて宣言させてもらい、これを掉尾として、この文章の幕引きとする。
以上。非常に腹立たしい、胸糞悪い、気分を害した気持ちを抑えつつ、この文を結ぶ。よしなに。wainai123753
以上。よしなに。wainai
『とありますが、創価学会の御本尊を謗ってお父さんが仏罰を受けたわけなので、創価学会を誹謗するのはおかしくないですか?』(ここが、コメンター、unknown氏の全ての言い分、引用)
ここには、分かって本人が言い募っているのか不審ですが、「創価学会を誹謗するのはおかしい」と言っていますが、為にする議論であり、その時代性が判っていない。
その当時の創価学会は、今とは全然違い「日蓮正宗創価学会」という、正に共同体であった。だから、御本尊を拝めばバンバン御利益も出たし、その今のunknown氏が言うように、その御本尊を謗れば、大罰も受けた。あくまでも、平成二年までの、昭和の頃の話だ。
そうして、しかし、それは、今の創価の、ニセ本尊を、文化会館経由で有難味も無く味気なくもらうのと違い、当時の、昭和の頃の創価学会は、ちゃんと、お寺、日蓮正宗寺院を通して、御本尊様を、格式を持って、御授戒にて、御下附為されていた。
だから、それを謗れば、謗法と成り、罰も出たであろう。
しかし、今回登場して来た、unknown氏は、創価を誹謗するのは、創価の本尊を謗った結果だから、誹謗するのは、おかしい?と、こういった論述論法である。
まず、時代性が、今現在の一新興宗教団体に成り下がった創価と、この、昭和の頃の偉大なる、それこそ、池田会長の前の、第二代戸田城聖先生率いたあの頃の創価とは、勢い、功徳の勢い違いが多すぎる。正に、日本の高度成長を支えたのは、日蓮正宗創価学会の発展抜きには考えられない程の、レベルの高い、それこそ、今では創価は「折伏」などとは呼ばずに、「仏法対話」なる、空疎な響きの勧誘をちんけにも行い、本尊も、正に「ニセ本尊」であり、今の創価の本尊を謗った所で、魔の通力以外、なんにも有り得ない。そうでしょう。そうじゃないんですか。そう考えられない方が、おかしいんじゃないでしょうか?
それに、その本尊だって、栃木県の浄圓寺に所蔵されていた、日寛上人御書写の御本尊をコピーし、更に、御本尊にしたためられていた、「本證坊日證授与」という授与書きを抹消して、作り上げたものです。
そのニセ本尊には、怖ろしい事に、お筆を勝手に伸ばしたり、シミを消したり、だいぶ本尊の印象を代えてしまった、本当の意味で、「ニセ」「贋作(がんさく)」以外の何物でもないのです。
皆、創価学会の皆さんは、本尊ならばどれでも同じ、と思い、感じ、信じている人が余りにも多すぎます。
本来の、日蓮正宗の御教えならば、その教えに則れば、戸田先生も申し上げた如く、「発電所が総本山富士大石寺の大御本尊」、そして、各家庭の、分身散体の、個々の御本尊は、それらは各家庭の、電気が中央の大御本尊様から送られてきて、その電気の最後の流れの各家庭の電気のランプ。支流を経て、最後に各家庭に電気が届いた、その結果が、その各御家庭に御安置の、御本尊様であるべきなんです。
その定理、定石を、根本から、池田創価学会は、くつがえし、変えてしまいました。
私は、昨日の0時過ぎに私にコメントした方と、貴方とは、違う人だと、現時点では思い考えております。詰まりは、unknownを名乗る成り済ましの別人だと。
その文体、そのもののいい方等々、コピペ多用等、まるっきり違うのが判ります。
けれども、私の不徳と致す所、見過ごしであり、若しも仮に、これが、同一人物ならば、昨夜0時に書き込んだ者、日蓮正宗信徒を名乗らんばかりの人の勢いで語ったのが、無意味にはならないのかな、とは半ば心配し呆れもして、思いますが。
とにかく、私のブログのコメント欄に何かモノを言いたい方々は、同時に必ず、何か他の人と見分けられ得るような、名前を敢えて名乗ってから、モノを書き、言って下さい。お願いします。
それでなかったならば、即刻、その、コメント投稿文を、削除する事もやむを得まい、有り得る、とこの欄にて、訴えるものです。
どうか、コメント欄では、何か、何でもいいので、名無し、unknown,ではなく、名前を名乗るように徹底してください。私がこういうのも押し付けがましくて何なんですが、見分けが非常につかないのも、その方にとっても、勿体ない、不幸な感覚も、せっかく書いた文章が、勿体ない、自己アピールが無駄になる、詰まり私により削除の憂き目に遭っても、詰まらない、悲しくはありませんか。私ならば、もっと、自分が書いた文章に、誇りと自信を持って、この世に、自身の意見を、説く為の努力は惜しまず、ちゃんと名前を名乗る、それが、人のブログに来た者のエチケット、礼儀だと思います。決して、今回のような人々が、常識外れだと、看做す訳じゃ有りませんが、この次は、気を付けて、必ず徹底して、名乗って下さい。それが「文章愛」、自分が綴ったせっかくの文章への、贈る言葉となる筈です。もっと、unknownなどと名乗らずに、自分の語る言葉に、名前、ペンネームに、自信と、誇りを持ってください。
これは、注意徹底させて行きたいと思っています。名無しはなし、の方向で、この通り、私のブログ内では、進んでゆきます。
他の方のブログを見かけても、名無しは非常識、の扱いの筈ですよ。その点、お忘れなきように。
とにかく、名無しであり、しかも、為にする、私の気に障る、侮辱、脅迫、恐喝、強要、ストーカー行為等々、刑法等、違法行為が見られた場合は、私はそのコメントを、容赦なく、削除し、そうでなくとも、削除の権限は、私に全権が握られているのであるのですから、その時の事情を鑑みて、削除等も有り得る事共を、ここで宣言させて頂きます。
以上。よしなに。wainai
よって、謝罪を要求する。御謝りなさい。
私共の友情、先輩後輩の、講中での立場関係を乱した罪は大罪である。私は非常に遺憾に思い、許し難く、我が菩提寺に対しても、顔向けできぬ程、今回の、私の人生上の折角の応援の励ましを行い、語ってくれた、同じ日蓮正宗無量山寿海寺の同志のその御方にも申し上げ、申し開きなど絶対、出来なくなってしまった。この責任は、全て貴方、お一人に存する。私は、決して、今回の貴方の今回、言った事共を、許しはしない。絶対に。必ずに。十四誹謗を、怖れなさい。破和合僧を、第一に、怖れよ。
以上。よしなに。wainai
貴方はちっとも、わかっていない。
今言いたい事は、それだけです。
不快な気分になられたら御免なさい。
しかし、私は貴方以上に、
非常に不愉快です。
この始末を、どう付けてくれるのか、
五里霧中です。
本当に、貴方こそ、日蓮正宗信徒なんですかね。そこを、これら、麗しい美談として書いた記事に盾突く以上、信徒を語るニセ信徒なのだろうか、とにわかには信じられませんね。
幾らでも、何とか支部の何とか寺を菩提寺とする、何々(この場合、Unknownとして、名も名乗らない非常識、浅薄さ)と名乗ったとしても、幾らでも偽装は出来ますしね。どうも胡散臭いわ。
以上。よしなに。wainai
2023-09-29 08:43:07
S楽さんは、宗祖日蓮大聖人仰せの、「随方毘尼(ずいほうびに)」といって、その国、その地方に合わせて、時代状況を鑑み、何よりも、私の悲嘆に暮れていたその当時のやるせなさを、救って下さった当本人なのです。
こんなに、S楽さんを侮辱した発言は、当宗内でも見受けられませんし、亡くなったうちの父親にも、貴方の仰る事共を、仮初めにも申したならば、故人は浮かばれません。
我らは皆、末法の荒凡夫ゆえ、時には、間違う、それは、そうです。けれども、正真の信心、日蓮正宗の御信心に目覚めた私達には、正しい信仰の寸心という者を持っております。
「草葉の陰」、葉隠れ精神、それにこだわっておられるのでしょうが、実際に、この時、私には、非常な、亡き父への土産話、冥途、霊山浄土へ旅立った父への、最高の親孝行ともなるべく、この時の私は、受け取らせて頂いたのは事実です。それのどこがいけない、むしろ、謗法だ、とも言いかねない言説の数々。私には、貴方は、ちっとも、人の死の尊厳が、十分の一も判ってはおらっしゃらない、と感じます。
私の一家の、その前後の不幸にまみれた、実際、この家の、家族を見舞った不幸など、貴方には二度と判らない事でしょう。
そんな、綺麗事は信用成らぬものです。
質問に答えて、S楽さんは、日蓮正宗の立派な御信徒です。それをこの文脈で理解なさしめ得なかった私にも責任はありますが、「邪宗的発想」とは、私とS楽さんとの、血の結束、先輩後輩の関係性、私の兄か、親、大先輩の申した言葉の揚げ足取りにしか、私には、貴方の申した言葉の意味が、受け取るしか御座いません。
こんな古い記事に、今もっていちゃもん、文句を言い募る、その執念深さにも、つい、呆れてしまいました。
何度も再度、言って置きますが、S楽さんは、昭和五十年代に、宗門と創価が決裂しかかった、五十二年路線の時に、宗門側につき、創価をいち早く、おかしいと気付き、創価を華麗に立ち去った、我がお寺でも、最古参の、大信徒で御座います。そのおん方を、こうまで愚弄した罪は、大罪に当たり、十四誹謗を免れないでしょう。
とにかく、彼を、悪く言う人は、同じ宗内、菩提寺内でも、ろくな人間じゃない事は論を待ちません。ただの、為にする、議論じゃないのかと。
彼の、S楽さんの文句をあえて言うつもりならば、S楽さんの名誉を掛けて、私が矢面に立ち、彼を命の限りに於いて、守護し、守り抜きます。それが、私の、このお寺、日蓮正宗無量山寿海寺に於ける、現時での、各、大先輩の方々への毎日、日頃からの御恩返しとなるものと信ずるからです。
以上、長くなりましたが、私とS楽さんとの、義兄弟の契りを無きモノにする、輩が幾ら出て来たとしても、私はどこ吹く風、ちっとも痛くもかゆくもありません。
そんな、軽くジャブを繰り出した位で、私どもの結束が緩む筈も無く、私達の先輩後輩愛、友情は、永遠に続いてゆく事でありましょう。
それに盾突く者には、私が相手になり、容赦なく、完膚なきまで、打ちのめします。それだけの、私のこの御教えに入信した時以来の、私達の関係性なのだと、ご理解の輪が広がればいいな、と今現在、思って居ります。
以上。よしなに。wainai