日本のC大学法学部を出て、アメリカの大学だか、大学院だか、法律の博士課程も修めた人のブログに、ビートルズをその人が若い頃夢中になりレコードを集めたが、その父親は、その人に、ビートルズにお前が養ってもらってるんじゃない、父親の俺がお前を養っているんだ、と言われて、その通り、とあっさり言う事を聞いたとの、文章を読んだ事がある。
しかし、これは極論、というか、こっちの話とそっちの話が違い、別物の話だと思った。
何かに夢中になるのを、その親は黙って見ていられなかったのだろうが、その文章を書いた人の皮肉、皮相めいたものも感じられる。
私は、人気者に、一般人として、決して手が届かない存在と分かっていても、それを、養う養われる、そんな二元化した、どちらを選ぶんだ、なんて、脅しかけられる親を持たないで本当に良かったと、その文を読んで思った。そんな料簡の狭い事では、これは身が持たないと思った。
そういった、損得勘定・感情、人を憎んだり、羨(うらや)んだり、蔑(さげす)んだり、嫉妬してみたり、それらは低レベルのお話だと、その人は気が付かないのであろうか。
何でも勉強勉強、人を蹴落としてまで、学問を身に着けて、何だか、一風変わった、日本人のくせに英語で論文調のブログ記事を時折その方は書いているようだが、それも教育の賜物。ザ・ビートルズから、音楽・人生・英語の語学を教えられている、と感ずる人などは、五万といるだろうに。
私には、その人の、世の中を見る目は、少し、焦点がボケていて、ぶれていて、ずれているように感ずる。どんなに名文章風な事共を自身が自信をもって書いたとしても。
その人が、学者なのか、一研究員だか、私は一時期フォロワーになり、向こうもフォローしていたのか、その内、どちらともなく、それらは取り下げとなった。或いは、私の記憶違いで、その方への片思い、一方的なフォローを私だけがしていたのか。今となっては分からない。悪いが思い出せない。
しかし、私は、いつかもこのブログで書いたかもしれないが、法律学、法学では、人生、人は救えないと思う、と書いた。この事は、私のブログ中で、或る、高校生時代の、国語科の担任の先生が、何の学問で人は救われるのか、と一人で生徒時代進路先を考えていた、という感じのタイトルで、私が一考察をしたものだが、その時は、実学、実際に役立つ学問、それも、医学や看護学、薬学、福祉学などなど、人の一生にかかわる分野の学問こそが、人を救うと確かその時私はその先生の本歌取りのように個人的に結論付けた。
私達の一生は、そんな、結局、生まれてから死ぬまで、揺りかごから墓場まで、それら、福祉医療のお世話になり、生きている。
それプラス、これは我が宗に最も足りないものだが、それは専門的大学機関。宗教学、宗教の学問、私たちで言えば、仏教の、日蓮正宗の御教えを、一心に、真剣に研鑽に努める事こそが、一番の大事な人生上の、修行、仏道修行である、と成るべきなのである。
この宗教、日蓮正宗をあやまたずに、やり抜けば、世の中どんとこいであり、いずこに敵はありや、「いずこにか我が敵あらん」(福島県立安積高等学校応援歌:「紫の旗ゆく所」の歌詞の一節)、との勇気千倍である。
だから、この信心で、人生という大海原の大波を乗り切れる、波乗りのような、確かな船長と羅針盤のある偉大なる宗教。
それは即ち、船長が御本仏宗祖日蓮大聖人をはじめ、御僧侶方、その頂点に立つ本師の御法主上人猊下様、小師の末寺の御住職様、それに羅針盤は、これは、三大秘法の戒壇の大御本尊様、大御本尊様と日蓮大聖人様は人法一箇であり、これらは本来は船長でもあり、羅針盤ともなり得る関係性にあるのである、勿体なくも。
とにかく、いくら学を修めても、それを誇りに思うのは良いし勝手だが、人様の趣味にけったいな、悪口罵詈、罵詈雑言を浴びせて、一人良しとするような、そんな人様の風上にも置けない、そんな人間にだけには成りたくはない。
それではまるで、宗教論争と同じだ。趣味の世界、特に音楽には、国境もなく、自由であり、それが音楽、その他の趣味にも共通に言える事なのであり、私は音楽の世界に、エセの、偽宗教的な論争は、持ち込んで欲しくはない。自分の趣味嗜好を、外野から非難されるようなら、なるたけ、そういった場、ネット上の批判めいた記事文章からは、遠ざけて、逃避して、退出すべく、見ざる言わざる聞かざるで、自分の身を守るべく、これからも身を処して生きてゆきたい。
まあ、要するに、私にとってのザ・ビートルズとは、自身のリスペクトの上での、最大限のモチベーションを押し上げるシステム、アイテム、ツール、グループ、存在であり続けている、比類なく、人生上の、又、音楽のお手本、という事であり大いなる意味を持つものなのである。
以上。よしなに。wainai