Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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歌会・郡山短歌研究会「群山」その2。二〇二四、R6年9・7(土)AM十時、於:大槻公民館

2024年09月07日 17時37分31秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現する。批評する。俳句鑑賞
淡海(あわうみ)をまなかにおきて雪渓をのこす飯豊は朝のけぶり(先生作)

「淡海」(あわうみ)=猪苗代湖。みずうみ。海はしおうみか?淡水と塩水の違い。
「七月の歌」
「朝のけぶり」の「に」作者が見ているな、という歌となる。
もや、けむりが流れて来るような。

「写生」自分の考えなしに作った歌。

ここで私から先生には質問、アンド提案。

今日持って行った、岩波文庫の、「子規歌集、土屋文明編」から、表紙を飾る、歌の解説を、是非にと、頼んだ。
それは、

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽針やはらかに春雨のふる

であった。
これに対して先生は、

理屈では解釈できない。

この「」が何を意味するのか。
多分、ここで切れる。
いつの歌か。(私は本の索引のページをサッと探って、一応、明治33年4月21日の歌と判る)
正岡子規は、1867年に生まれて、1902年に亡くなっている。先生は大体、明治35年9月19日没、と調べた。
子規は、自分の(子規の)人生の余生、最期に差し掛かり、病床で伏していた時の歌、自分でも死ぬのは分かっていた。

正岡子規は、「写生」を重んじて、提唱した。
古今集・新古今集をも、「写生」で批判した。

その、短い人生で、言い足りなかった部分を、
伊藤左千夫、斎藤茂吉、土屋文明らが、受け継ぎ、補足、継承、発展させた。

(生徒さん)
さくら花咲き初む()あの日われを待ちつつ母は逝きたり

この歌を「仙台本部に直された」()と。
」を入れなければ終止形なのでここで止まる。人によってはここで止める人もいる。
(生徒さん)やっぱり「」は入れた方が良いと思う。
(先生)切れ目がない歌。感動を表す為、切った方が良いのでは、と思った。(先生談)。
先生は、「われを待()」の方が良いと。

文語文法のおさらい。(生徒さんの古文法の先生への質問)
初(そ)む 
そめ ず(ば)未然形(そめたらば)
そめ て   連用形
そむ     終止形
そむる とき 連体形
そめれ ば  已然形(⇒現代語に訳すと、「ので」)
そめよ    命令形

(私の先生へ質問)
短歌結社「群山」という名前の由来を知りたい。
(先生)万葉集から取った名前。
扇畑忠雄東北大学教授の命名。
長歌の中の一節。
扇畑先生の意図、意向は判らないので、
今度調べて来ます(先生)。
先生から、先生のお父様の当時の昭和52年6月26日発行の、著者、國分清雄先生の立派な体裁の御本をただで皆で頂戴した。
奥付から、その御名前、住所等が書かれ、私と同じく、旧制中学、福島県立安積中学校、(現福島県立安積高等学校)卒業後、福島県師範学校(現福島大学)を卒業されて、短期間兵役に就き、その後、郡山市立金透小学校教諭を出発点として、昭和四十二年三月三十一日、郡山市立大槻小学校校長として、私の我が母校を最後として、満三十七年の教職を去る。
歌を作り始めたのは昭和五年。店頭で初めて手にした「アララギ」であり、それに投稿しつつ、斎藤茂吉先生の選を受けた。時に十九歳であった。
戦後、昭和三十八年、「群山」に入る。
正統な茂吉の流れを受け継いでいる、正に正統派である。
今、生きていれば、115歳位。65歳で亡くなられた。
もう少し生きていれば、群山の発展に寄与したのかも知れない(先生談)。
その間も病魔と闘い、寿泉堂総合病院主治医先生にお世話になりつつ、人生の大半が闘病生活であった。後書は、昭和五十二年五月二十四日に書かれている。

とにかく、私自身も、こんな風な、立派な歌人になりたい!と望む者である。
それにもまして、私の所属するこの歌会、郡山短歌研究会「群山」の東北アララギ派の流れを立派に汲んだ、凄い流派だという事に、今まで気付けなかった自身の愚かさをひたすらに自重しつつ反省し感ずる次第である。

要するに、修行、特に「仏道修行」が足りない私である。これが今後の最大一の、問題、課題となる事は必定と見えて候。

以上。よしなに。wainai
これが國分滿先生のお父様の、國分清雄先生の御著書、歌集である。『軒の葡萄棚』とあり、当時、送料は著者負担で、本の値段、1,500円、とあった。
以上。よしなに。

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