年末の今頃になり、私の短歌が出来上がりました。
しかし、あんまり、年末感、師走感はありません。
一応、皆さん、見て、読んであげてください。
今はもうレンタル業を辞めたといふ
ツタヤにCD借りに行きし日々
図書館でCD借りし日々過ごし
PCに音楽240ギガバイト在り
音楽に好き嫌いは全くなし
ベートーヴェンもビートルズも好き
音を聴き目で見し能力我は有り
五体満足の心地良さよ
郡山大郡山郡山
我が福島の中心部に在り!
こうやって詠めるようになるまで、何か月かかった事でしょうか?!私の大スランプはこれにて、ひとたび、脱することが出来ました。
しかし、一方が良いと片方がへこみ、引っ込む。そういった法則があるようです。
私の電子キーボードピアノの練習、進捗具合がよろしくはありません。電子キーボードは停滞し、進んでいません。
でも、私は貪欲に、前に向かって歩いてゆきます。何事も、諦めはしません。今回の、短歌がそれを証明しているではありませんか。
趣味にも、捨てる趣味あれば、拾う趣味あり、で、趣味は、いい時もあれば、上手くゆかない、行き詰まったと思う時期があるものです。
そういう時は、そっとしておいて、別の趣味に打ち込む。これが多趣味な者に課せられた使命、命題です。
そう、柱を、何本も立てて、自分の支えとするのです。自分の精神の支柱を、何本でも立てて置いて、自身の逃げ場としての、趣味活動です。
そもそもがプロフェッショナルじゃなく、アマチュアの遊びなんですから、そんなに堅苦しく、気負わなくても良い訳です。
今は、私は短歌は今回この通りですが、一応、読書には、自分なりに自信を持って、打ち込んでいる最中です。色んなジャンルの読書に試みて居ります。
とにかく、そもそもが「趣味」などと、大風呂敷を広げなくとも、その人その人にとり、指向性、嗜好性、好き嫌いが皆、それぞれにあり、誰しもが立派な趣味人であり得る、と私は信じております。どんなに忙しい人でも、テレビやラジオの視聴、聴取が趣味だ、と言ったとしても、私は立派な趣味だと思い認めて差し上げます。
勿論、音楽を聴く事も趣味の一環。ゲームをしたって、時間厳守を守られる方ならば一向に別段、構わないでしょう。時間をキッチリ守れるならば。私はゲームに関してはやってる間が時間をもてあそんでいるようで、集中できず困っております。すぐ負けるし。
これは私は、任天堂の初代ファミコンの時から同じです。私にはゲームの才能が全く無いのです。私とゲームとの相性も極めて悪い。ゲームは時間つぶしにはなるんだろうけれど、初心者の私にはその世界観が、ロールプレイングゲームなども余り得意じゃない。好きには好きだが。将棋は好きな方かな。
古い人間なんですよ、私は。その時間に、本の活字を追う方が数倍面白い。元々が、頭が固いんですよ。私の得手不得手ですから、これは。
映像も極めて苦手。中々、ブルーレイ、DVD等、見る時間がない。集中力は有る方だとは思うのだけれど。その時間も、何か落ち着かない。第一、目も耳も奪うそれら媒体が許せないと感ずる。目だけ、耳だけ、ならば有りなのだが…。
むしろ、そんな時間があるなら、その間に、お題目を唱えた方が良い位。どっちが楽かと言えば、私は日蓮正宗のお題目の信心だな。
とにかく、一つに捉われずに、おおらかに、何にでもトライする姿勢が大事。
それに、新聞などの、その日の生きた活字を追うのも、立派な趣味です。
とにかく、この世の中に於いて、何だって、誰だって、仕事だって勉強だって何だって、一生懸命に取り組んだものに、裏切られる事はなく、一生懸命さに於いては、誰にも負けない、と信ずるものには、全て還って来るもの、得られるものも、非常に多いと思うのです。
私だけが多趣味の趣味人じゃない。この世には、(自分がそうとは気付こうが気付くまいが)趣味人が満ち溢れている。そういった観点からも、私はこの世の中に趣味に打ち込む趣味人が圧倒的に多くなればなる程、この世界は平和へと今、一歩ずつ近づいてゆく、と信ずるものです。
「趣味・オタクが、世界を救う」と。
それに、忘れてはならないのは、私の場合は、信心、日蓮正宗の信仰が最大一に自身の位置づけでは最高位に在り、まずはそこから手を付ける。まずは何を差し置いても、信心の勤行唱題行。自行化他にわたる信仰活動が、モノを言うのです。全ての根底には、この信心の結晶であり、その土台の上に、これら、趣味が成り立ち出来上がっているのだとの、万物への御報恩謝徳、感謝の念を常に持ち続ける事が非常に根本であり大切で大事なのであります。
以上。よしなに。長文失礼。wainai