右、米山への道標である。ここから平沢をへて米山の最後の登山口、水野に至る。
平沢の道祖神が見つかったことに気を良くし、先ほど困惑した三叉路に戻り左側の道を走ってみた。2kmほどの下りを注意深く降りていくと、視界が開け、水田が広がった。降り終えたあたりに目立つ道標があった。右は米山、左は栃窪とあった。栃窪は買っては温泉宿があったらしいく行ってみたが、廃墟となっていた。
小萱集落から林道を進むこと1kmほど。切通の土手の上に双代道祖神。大抵の石仏は移動されていることが多いが、ここの道祖神は建立時期からのようだ。
緑なす檜林のなかの林道に
ナビに従い国道に再び戻り、双体道祖神が崖際にあるとされる小萱に。春先に来た時にはその存在を確かめることはできなかったが、今回は多くの時間を割いても、その存在を確かめようと気合が入っている。春先は雪があり、集落の方に出会うことがなかったが、今回は幸いなことに、集落の詳しい方に出会うことができ、出会うことができた。小萱の双体道祖神は集落の奥、今は無き大平集落へと続く林道の途中にあった。
また資料にある崖とは、霧通しの土手のことであった。
双体道祖神の手前にあった供養塔。
こちらの道標(記名に弘化元とあるから1843年)も道祖神の手間への2叉路にあった。左、やまえとあるから米山であろうか。右、かしハさきと読めるがどうだろう
小萱集落方面を見る
ふくよやかな顔の双神 建立年月日は記名はないが、道標には弘化元(1843年)とあるから同じころにできたものと想像されるがどうだろう。石の素材が違うのだが。
さて米山道を巡って粛々と建てられた上越市内の双体道祖神3体はここまでで、この先柏崎市には大平、蕨野、小杉と双体道祖神が建てられていたのだが、大平、蕨野は廃集落となり、道祖神は柏崎の博物館に収納されている。
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