江戸の退屈御家人

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歴史を旅する・・北九州 その4

2013年08月04日 06時52分30秒 | Weblog
邪馬台国九州説の擬するひとつが吉野ヶ里。




ここに卑弥呼がいた、というのが魏志倭人伝の一番素直な理解だろう。
この場合、南の句奴国が、岩戸山古墳の八女古墳群の地域で、





卑弥呼の登場と死亡は倭国大乱の前後に句奴国に敗れたためとも考えうる。

その句奴国の約250年の末裔が磐井の乱の主体筑紫の国造磐井の君である。
このころは大和朝廷の勢力が拡大し、この反乱で九州も完全に支配下に置かれた歴史の転換点とも考えられる。

一方、おなじく邪馬台国九州説でも伊都国とする方がより合理的と思える。何しろクニとしての発展段階と位置、遺跡の内容が極めて有利。律令国家の時代も継続している。
 この場合、ヤマトの纏向の地へ、東征したのか?ここが根本問題。





ちなみに
 伊都国・・・・前原
 奴国・・・・・博多
 末廬国・・・・唐津
 壱支国・・・・壱岐の島郷ノ浦
 句奴国・・・・熊本、菊池郡、球磨郡か
 邪馬台国   ???????

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