食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

うどん・そうめん・石臼-中世日本の食(8)

2021-01-18 17:49:58 | 第三章 中世の食の革命
うどん・そうめん・石臼-中世日本の食(8)



「粉食(ふんしょく)」という言葉があります。これは、穀物などを粒のまま食べずに、粉にした後でパンや麺にしたり、水でといたものを焼いたり揚げたりして食べることを言います。うどんやそうめん、お好み焼きのように、コムギを食べる時はたいていは粉食にします。

一方、日本のご飯のように粒のまま食べることを「粒食(りゅうしょく)」と言います。

このようにコムギとコメの食べ方が異なっているのは、粒を覆っている皮(外皮)の付き方に違いがあるからです。つまり、コメの外皮ははずれやすいのに対して、コムギの外皮は次の理由から簡単には取り除くことができないのです。

コムギの外皮はとても固くて、内側の胚乳にしっかりくっついています。また、コムギの粒には縦方向に「粒溝(りゅうこう)」と呼ばれる深い溝があって、そこに外皮が入り込む構造になっています。さらに、胚乳部分がとてももろいため、中身を崩さずに外皮を取り除くことがとても難しいのです。そこでコムギの場合は、外皮が付いた状態ですりつぶした後に、篩(ふるい)にかけて外皮を取り除くことで小麦粉にしているというわけです。


コムギの粒(縦方向に深い溝「粒溝」が見える)

コムギをすりつぶすために使用されたのが「石臼」です。石臼は2つの石をすり合わせることで穀物や茶葉などを粉砕します。

人類が最初に作った石臼は、石板の上で手に持った石を往復させる「サドル・カーン(saddle quern)」と呼ばれるもので、古代エジプトではこのタイプのものが使用されていました。その後、紀元前1000年頃の西アジアで2枚の円板を重ねた「ロータリー・カーン(rotary quern)」が発明されました。ロータリー・カーンは画期的で、上の石をいくらでも大きく重くできるため、大量に粉をひくことができるようになったのです。


石臼(ロータリー・カーン)
(Dimitris VetsikasによるPixabayからの画像)

今回は石臼の日本への伝来について触れながら、「うどん」と「そうめん」の歴史を見て行こうと思います。

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日本にコムギが伝来したのは約2000年前の弥生時代だとされるが、その頃は粒のまま粥のようにして食べられていたと考えられている。

石臼は漢代(紀元前206〜後220年)にシルクロードを経由して西アジアから中国に伝えられた。そして「碾磑(てんがい)」と呼ばれる大型の石臼が作られて、小麦粉が大量に作られるようになった。前回お話しした諸葛孔明(181~234年)がヒツジとブタの肉を小麦粉で作った皮でくるんで饅頭を作ったという伝説も、小麦粉がその頃には一般に流通していたことを示している。

石臼が日本にもたらされたのは奈良時代と考えられている。東大寺の旧境内からは奈良時代の製粉所らしき建築物や碾磑(てんがい)の一部と思われる石の破片が見つかっており、寺院などを中心に小麦粉が作られていたと推測されている。

コムギの小さい粒を粉砕する石臼の作製には高度な加工技術が必要とされるため、多くの場合は中国などから輸入されていたと考えられている。そのため、石臼はとても高価なものであり、石臼を使って製粉ができるのは宮廷や有力貴族、そして大きな寺と神社だけであった。ちなみに、一般庶民に石臼が普及するのは江戸時代に入ってからと言われている。

なお、鎌倉時代後半になると、茶の文化を伝えた禅僧によって「茶磨」という抹茶を作るための小型の石臼が日本に伝えられた(現代日本では「茶臼」と呼んでいる)。茶磨は宋代(960~1279年)前半に発明されたもので、抹茶を飲むためには欠かせないものだ。

それではここからは「うどん」と「そうめん」の話をしよう。最初はうどんだ。

うどんの直接のルーツと言われているのが、中国で唐の時代(618~907年)に始まった切り麺と呼ばれるもので、こねた小麦粉を包丁で切ったものをゆがいて作る。切り麺は宋代で全盛となり、平安時代の終わりから鎌倉時代の初めに禅僧などによって日本に伝わり、「切り麦」と呼ばれるようになった。

日本に伝わった頃は、切り麦は冷やした状態で食べられていたと考えられているが、時代とともに温かいものも食べられるようになり、これが「うどん(饂飩)」になったと言われている。

うどん(饂飩)という言葉がどのように生まれたかについては諸説あるのだが、「飩」が「麺」を意味することから、「温かい麺」を意味する「温飩」が「饂飩」に変化したと言う説(奥村彪生さんの説)が私には一番もっともらしく聞こえる。

江戸時代前期の1697年に出版された食の百科事典『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』には、温かい「うどん」とともに冷やして食べる「冷や麦」のことが記載されており、この頃までに「うどん」と「冷や麦」という2つの食べ物が世の中に広まっていたことが分かる。

なお、現代のうどんは醤油味のつゆで食べるのが一般的だが、醤油が普及するのは17世紀以降のことであり、それまではうどんは味噌味で食べていた。また、現代のうどんでは「コシ」が話題になることがあるが、うどんのコシが意識されるようになったのは20世紀になってからと言われている。

ちなみに、「コシ」は小麦粉の生地に塩を加えてこねる時にタンパク質のグルテニンとグリアジンが結合して網目構造(これを「グルテン」と呼ぶ)が作られることで生まれる。また、生地をしばらく寝かせるとグルテニンとグリアジンの結合が強化されてコシが強くなる。現代のうどん作りではこうしてコシを強くしている。

次は「そうめん(素麺)」だ。

現代のそうめんの原型と考えられているのが唐菓子の「索餅(さくべい)」である。これは小麦粉に塩や醤・未醤(味噌のようなもの)を入れて練って細長く引き延ばしたものと言われており、奈良時代に遣唐使によって日本に伝えられたとされる。

索餅は平安時代には宮中で疫病除けのために七夕に食べられていたらしい。また、平安京の南部の東西に一つずつあった市でも索餅が売られていて、庶民も買って食べることができたそうだ。江戸時代にも虎屋が七夕の食事として索餅を宮中に納めている。このため、現在では七夕の7月7日が「そうめんの日」になっている。

現代のそうめん作りでは、生地を延ばす時に表面に油を塗る。このすると麺の乾燥を防いで細く長く延ばすことができるのだ。この作り方は中国で開発され、宋代に全盛になったと言われている。これが禅僧などによって鎌倉時代から室町時代にかけて日本に伝えられたのだ。

しかし、そうめんを作るためには小麦粉と油という高価な食材を必要とするため、室町時代に作ることができたのは宮中や有力貴族、寺院などの限られたところだった。庶民の間で広く食べられるようになるのは江戸時代になってからである。

(日本の昔からの麺類には、うどんとそうめんのほかに「ソバ」がありますが、ソバが日本に登場するのは17世紀のことになります。ソバについては「近世」でお話する予定です。)

中世の菓子-中世日本の食(7)

2021-01-16 17:51:49 | 第三章 中世の食の革命
中世の菓子-中世日本の食(7)
日本の中世には、お菓子の世界にも大きな変革が起こりました。
日本古代の奈良時代には中国から唐菓子と呼ばれるお菓子が伝えられていたのですが、そのほとんどが日本には定着しませんでした。

ところが中世になると中国から新しい食品が伝えられ、日本で独自の変化を遂げることで新しいお菓子として日本に定着して行くのです。その中には饅頭や羊羹など、現代でも和菓子の代表格となっているものがいくつもあります。
つまり中世に出現したお菓子が、現代に続く日本のお菓子のルーツとなっていると言っても過言ではないのです。

今回はこのような和菓子のルーツについて見て行きます。

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奈良時代に日本に伝えられた唐菓子は、米粉や小麦粉、あるいは豆の粉に甘味や塩味をつけて練り、ごま油などで揚げたりしたものだ。唐菓子は大饗料理の一品として平安時代まで食べられていたが、油で揚げた食べ物が日本人の口に合わなかったためか、それ以降はほとんど食べられなくなった。現在は、奈良の春日大社の神饌(しんせん、神様へのお供え物)として作られているくらいだ(京都の亀屋清永でも唐菓子を再現したものが販売されている)。

鎌倉時代になると日本の留学僧や中国の僧によって禅宗が日本に伝えられ、鎌倉仏教として武士や庶民に広がって行った。既にお話ししたように、禅宗は精進料理や茶の湯などの食生活に大きな影響を与えたが、禅宗の習慣はお菓子の世界にも大きな変革をもたらした。それが「点心」と呼ばれる食事である。

点心とは「軽い食べ物」のことで、もともとは朝食前に空腹を満たすものだったが、次第に朝食と夕食の間に食べられるようになったものである。禅宗では眠気を覚ますために茶を飲んでいたが、その時の茶うけとして食べられていたのが点心であった。

なお、現代の中華料理でも広東料理を中心に、茶を飲みながら餃子やしゅうまい、肉まんなどの点心を食べる「飲茶(やむちゃ)」が行われているが、これが点心の本来の姿である。

さて、日本に伝えられた点心の代表格と言えば「饅頭(まんじゅう、中国ではまんとう)」になる。

この饅頭は、中国の伝説では三国志の諸葛孔明と深い関係がある。敵を打ち破った孔明がある河を渡ろうとすると、突然強風が巻き起こって渡ることができなくなってしまった。河をしずめるためには、その河に住む神に49人の生贄をささげる必要があったのだが、犠牲を嫌った孔明は、その代わりにヒツジとブタの肉を小麦粉で作った皮で包んで作った「饅頭」をささげた。すると河はしずまり、孔明は蜀に帰還することができたという。これが饅頭の始まりとされている。



饅頭の日本への伝来については、1241年に禅僧の聖一国師が伝えたと言う説と、1349年に帰国した龍山禅師が連れてきた中国人の林淨因が伝えたという二つの説がある。

聖一国師は、博多で茶屋の主人に肉の代わりに餡(あん)を入れた饅頭の作り方を教えたと言われている。

一方の林淨因は、奈良で日本人の女性と結婚して「奈良饅頭」を売り出したとされる。最初に作った饅頭にはヒツジとブタの肉が入れられていたが、浄因の子孫が肉の代わりに甘い小豆餡を入れたものを作ったところ評判を呼び、この形の饅頭が全国に広がって行ったと言われている。

また「羊羹(ようかん)」も中世に日本に伝わった点心の代表格だ。

羊羹の「羹(あつもの)」とは本来は「汁物」のことで、羊羹は「ヒツジの肉を煮た汁」と言う意味になる。羊羹以外にも、猪羹(イノシシ)・驢腸羹(ロバの腸)・白魚羹(白身の魚)・月鼠羹(ネズミ)などたくさんの羹があったそうだ。

羊羹は室町時代に日本に伝わったが、この時には羊肉の代わりにアズキや穀物などで羊肉風にした具材が入れられ蒸したものが作られていたと考えられている。そして1589年には京都の駿河屋がアズキと寒天、砂糖を原料にした蒸し羊羹を考案した。なお、蒸し羊羹は水分が多いため日持ちしないが、水分が少なく日持ちがする練り羊羹は18世紀の終わり頃に江戸で作られる。

饅頭や羊羹を代表とする点心は茶の湯に取り入れられて、茶菓子として重宝されるようになったが、茶の湯を完成させた千利休が愛した茶菓子が「麸の焼き(ふのやき)」と呼ばれるものだ。これは、小麦粉を水でといたものを鍋の底に広げて薄く焼いたものに山椒風味の味噌を塗って巻いたもので、中世日本のクレープと呼んでも良いものだ。利休は多くの茶会でこの麩の焼きを出したという。

このように、小麦粉をといたものを焼いて作ったお菓子はその後も様々なものが考案され、その調理法はもんじゃ焼きやお好み焼きに引き継がれたと考えられている。

ところで、点心に由来するものではないが、室町時代によく食べられるようになったお菓子に「団子(だんご)」がある。団子は古代から神饌であったが、室町時代になると串に刺したものやみたらし団子などが登場して、庶民にも広く食べられるようになった。

ちなみに三色の花見団子は、天下人になった秀吉が1598年に京都の醍醐に1300人を招いて開いた茶会で、お茶菓子として招待客にふるまわれたのが始まりと言われている。

懐石の誕生-中世日本の食(6)

2021-01-14 23:12:41 | 第三章 中世の食の革命
懐石の誕生-中世日本の食(6)
今回は「懐石(料理)」の話です。(料理)とカッコ付きにしたのは、本来は「懐石」と「懐石料理」は違うものとされているからです。また、これら以外にも、「茶懐石」や「京懐石」などがありますが、これらの違いは何でしょうか。

まず「懐石」は、茶会で茶を飲む前に食べる料理のことです。懐石という言葉は、修行僧が寒さと空腹を紛らわすために温めた石(温石)を懐に抱いてお腹を温めたことから来ており、質素な料理を指します。

次に「懐石料理」ですが、これは茶会から独立して単独で食べられるようになった料理のことを言います。もとの懐石では、ご飯と汁物が最初に出て酒は少ししか出ませんが、懐石料理になると最初から酒が出て、ご飯ものは最後になります。つまり懐石料理は宴会料理とも言えます。ただし、懐石も懐石料理も一汁三菜もしくは一汁二菜を基本としています。

「茶懐石」も懐石料理と同じように茶会から独立した料理ですが、もとの懐石のように最初にご飯と汁物が出る場合にこう呼ばれることがあるようです。また、茶会で出す懐石を茶懐石と呼ぶことで、懐石料理とは違うことを示すこともあるようです。

最後の「京懐石」は京都で発達した精進料理を懐石料理に持ち込んだもので、「懐石風精進料理」と言えます。

しかし、以上のような分け方は厳密なものではなく、それぞれがかなり混同して使われたり、懐石からほど遠い料理を懐石と言ったりしている場合もあります。

とにかく、懐石という言葉は現代では「上品な和食」を表す重要なキーワードになっているため、この言葉がよく使われているのだと思います。
少し前振りが長くなりましたが、これから懐石が生まれてきた歴史を見ていきましょう。



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前々回の「茶の湯の誕生」でお話ししたように、16世紀になると京都や奈良、堺などで盛んに茶会が行われるようになった。このような茶会では食事を出すのが原則となっていた。と言うのも、空腹時に濃い茶を飲むと胃に悪いからである。

茶会は上流階級の人たちで催されていたため、そこで出される料理も本膳料理かそれに近い豪華なものが多かった。本膳料理は以前の大饗の料理よりも美味しくはなっていたが、見た目の豪華さの方が重要視されるあまり、美味しさがなおざりにされることもよくあった。

そして、このような豪華さは質素さを基本とする「わび茶」の精神とは相いれないものであった。このような矛盾を解消するために千利休(1522~1591年)が生み出したのが、質素な「懐石」だったのである。

ただし「懐石」という言葉を利休自身が使ったことはないらしく、茶会の料理を表す言葉として一般的に使用されるのは明治になってからと言われている。それまでは、集会を表す「会席」や食事を表す「献立」という言葉などが使用され、特別な名称をつけるということはなかったようだ。

茶会での料理に対する利休の思いを伝える逸話としては次のようなものがある。

利休が開く茶会に招かれていた客が、その前日にお礼をするために利休の家に訪れたところ、利休は金銀で飾った豪華な本膳料理を出して彼らを喜ばせた。その本膳料理は利休が茶会のために用意していたものだったのだが、あえて前日にふるまうとともに、当日の茶会では粗末な汁物だけを出したという。利休はこのようにして、茶会での贅沢を否定するという姿勢を皆に示したとされている。

つまり、利休が目指したのはわび茶風の料理であって、普通の宴会のように酒を飲んで大騒ぎするようなものではなく、静かに語らいながら食事と酒、そして茶を楽しむのである。こうして16世紀末頃になると、本膳料理などと茶の湯の料理とを区別しようとする意識が高まって行ったのである。

さて、昔の日本の様子を知る上でその当時日本に滞在していた外国人の記録はとても役に立つ。信長や秀吉の時代にはポルトガルから多数の宣教師が日本に来ていたが、その中にジョアン・ロドリゲス(1561~1633年)という人物がいた。彼は10代の頃に単身で来日し、日本でポルトガル人から教育を受けて司祭となった変わり者だ。彼は非常に日本語に長けていて、秀吉(1537~1598年)とも親しく接したことがあるとされている。

ロドリゲスは日本に関する書物をいくつか書いているが、その中に日本の文化風俗や宗教史を紹介した『日本教会史』という書物がある。その本に当時の上流階級で出されていた料理について述べている箇所がある。そこでは本膳料理の説明の後に、「温かくて十分に調理された料理が適当なタイミングで客の前に運ばれる」料理があるとしていて、これが利休の始めた茶会の料理と考えられている。

当時の本膳料理では目の前にお膳がずらっと並べられており、その中には見るためだけに作られて冷たくなって食べられない料理もあった。一方の茶会の料理は一汁二菜、あるいは三菜という簡素な料理であったが、丁寧に調理されたものが温かいうちに順番に運ばれて来るようになっていたのだ。このように茶会では、質素ではあるが、手間をかけた凝った料理が出されていたのである。

応仁の乱やそれに続く戦乱によって世の中には虚無感や無常観が広がっていたが、そのような中で日常生活の素晴らしさをいつくしむ心が強くなって行ったと言われている。そして、季節感を盛り込むことで、穏やかな日常を楽しむことができる料理が好まれるようになったのである。

このように季節感を大切にして、さまざまな趣向を料理に取り入れようとする姿勢は、それ以降の日本料理に受け継がれていくことになる。このように、「懐石」が日本の料理の歴史で果たした役割はとても大きいものだったのだ。

中世の日本料理の発達-中世日本の食(5)

2021-01-11 19:37:01 | 第三章 中世の食の革命
中世の日本料理の発達-中世日本の食(5)
現代の日本でフォーマルな日本料理と言えば「会席料理」になります。これは先付(さきづけ)から始まるコース料理のことです。

一方、同じ読み方をする「懐石料理」も日本の伝統的な料理です。この料理は茶の湯に関係していて、茶を飲む前に提供される料理のことをいいます。
このように会席料理と懐石料理は異なるものですが、歴史をたどって行くと同じ起源を持っていることが分かります。

今回は、会席料理と懐石料理の起源である中世の日本料理について見て行きます。

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記録に残されている日本の最も古いフォーマルな宴会が「大饗(だいきょう)」だ。これは平安時代(794~1185年)の中頃から、宮中や高級貴族の邸宅で開催されていた大規模な宴会のことである。

大饗は今の乾杯に当たる「酒礼」で始まる。酒礼では、出席者が盃に入った酒を順番に回し飲むという行為を3度繰り返す。この儀式のような行為から「三々九度(三献の儀)」や「駆けつけ三杯」が生まれたと言われている。

酒礼が済むと「饗膳」と呼ばれる食事に移る。大饗は唐の文化の影響を受けていて、料理を乗せる台としては「台盤(だいばん)」と呼ばれる脚つきの大きな膳が使われていた。台盤の上には複数人分の料理が一人前ずつ器に盛られて並べられていて、出席者は台盤の周りに置かれた椅子に座って、箸と匙を用いて料理を食べたと考えられている。

なお、時とともに台盤の脚は短くなり、出席者は椅子を使わずに床の上に座って食事をするようになった。また、台盤のような大きな食卓の代わりに一人用の小型の膳(銘々膳(めいめいぜん)と呼ぶ)が使われるようになり、客の前には数個の膳が並ぶことになる。

ところで、現代で使われている「台所」という言葉は、貴族の邸宅で調理を行い、台盤の上に配膳をする部屋を「台盤所」と呼んだのが語源とされている。

鎌倉時代(1185~1333年)になり武士に政治の実権が移ると、公家は大規模な宴会である大饗を行うことができなくなった。一方の武士の方も、源頼朝が質素な生活を推奨したことから、きわめて質素な食生活を送ることになった。頼朝は武士が貴族の華美な風習に染まることを嫌い、この方針が後世に引き継がれたのである。鎌倉時代の武士は「一汁二菜」の食事をしていたと言われている。

鎌倉時代以降に正月になると有力な御家人が将軍にふるまった食事が「埦飯(おうばん)」と呼ばれるものだ。埦飯はもともと宮廷の警備係だった武士が宮廷行事の際に出された昼食のことだった。

鎌倉時代の埦飯は、ご飯の上に薄く切ったアワビやクラゲ、梅干しを乗せ、それに塩と酢を添えただけの簡単な食事であった。それでも、ここから江戸時代の民衆の酒宴を椀飯振舞いと呼ぶようになり、現代でも気前よくおごることを大盤振舞いと言っている。

室町時代(1336~1573年)になると、京都に幕府を開いた将軍は公家の文化を取り入れるようになり、食事も豪華なものになって行った。そして、公家の大饗のように儀式的な要素が強い宴会が行われるようになる。そこで出されたのが「本膳料理(ほんぜんりょうり)」と呼ばれるものであった。初期の本膳料理は足利義満(在職:1368~1394年)の時代には成立していたと考えられており、江戸時代が終わるまで発展と変化を続けた。

本膳料理を簡単に言うと、一人用の銘々膳の上に様々な料理のお椀や皿が並べられた料理のことだ。本膳料理の最も簡単な形式は一汁三菜で、飯・香の物・汁物・膾(なます)・煮物・焼き物が出される(飯と香の物は数に入れない)。

料理の規模が大きくなると、一の膳(本膳)に加えて、二の膳、三の膳と膳の数が増えて、最も多い場合には七の膳まで出されることもあったという。なお、膳の数が増えるにともなって、料理の数も二汁五菜(あるいは七菜)、三汁七菜(あるいは十一菜)と増えて行った。

なお、本膳料理は武家や公家だけが食べたものではなく、僧侶も食べていた。この場合は、精進料理の本膳料理が出されていた。

本膳料理では大饗と同じように、料理を食べる前に「式三献(しきさんこん)」という酒礼が行われた。これは、3つの酒の肴に対して、それぞれ3回ずつ乾杯を行うもので、儀式的な要素が強かった。ちなみに一つ目の酒の肴には雑煮が出されることが多かったらしく、これがめでたい正月に雑煮と一緒におとそを楽しむという習慣につながったと考える学者もいる。



さて、本膳料理で出された料理だが、調理法の発達によって現代人が見てもかなり美味しそうなものが出されていたようだ。いくつかの献立をあげると次のようになる。

塩鮭の焼き物、キジの焼き物、鯛の焼き物、サザエの焼き物、鯛の汁物、小鳥の汁物、ナマコとヤマイモの汁物、クジラの汁物、キスの焼びたし、かまぼこ、アワビの酢の物

本膳料理は武士のおもてなしの料理として発展してきたが、やがて茶の湯に取り入れられることで「懐石(料理)」が生まれることになる(次回は懐石料理のお話になります)。

茶の湯の誕生-中世日本の食(4)

2021-01-09 22:58:01 | 第三章 中世の食の革命
茶の湯の誕生-中世日本の食(4)
ノンアルコールの飲み物として、緑茶や紅茶などの「茶」と「コーヒー」は世界中で広く飲まれています。この2つに共通することが「カフェイン」と「ポリフェノール類」を多く含むことです。

カフェインは中枢神経系に作用して、眠気を覚ましたり、集中力を高めたりする効果を発揮します。また、胃酸分泌の促進や利尿など、体の調子を整える働きもします。最近ではカフェインを日常的に摂取していると、認知症予防につながることが複数の研究から示唆されています。

また、ポリフェノール類は強い抗酸化作用を示し、血管や組織を傷つける物質を無毒化します。ポリフェノール類にも、肥満や2型糖尿病、心疾患、脳卒中、がん、認知症などの予防・改善効果があることが、さまざまな研究で示唆されています。

このようにカフェインやポリフェノール類は人間にとって有用な物質ですが、昔の人々は茶やコーヒーを飲んだら体の調子が良くなることに気が付いて、日常的に飲むようになったのではないかと思われます。

学校の日本史の授業では、千利休が「茶の湯」を完成させたことを必ず習います。今回は利休によって茶の湯が完成するまでの話を見て行きます。

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現代の日本における茶の飲み方としては主に次の2通りがある。

①抹茶:粉末にした茶葉に湯を注ぎ、茶せんで混ぜたものを飲む
②煎茶:茶葉に湯を注ぎ、出てきた汁を飲む

この2つの飲み方はどちらも中国から伝わったものだが、日本で②の「煎茶(せんちゃ)」と呼ばれるものは、中国では「淹茶(えんちゃ)」という飲み方だ。中国の「煎茶」は茶葉を煎じて(煮出して)飲むものなので注意が必要だ。

実は中国での最初の茶の飲み方は中国式の煎茶だった。遣唐使たちによって日本に伝えられた飲み方もこの方法だった。

中国では宋代(960~1279年)になると、粉末にした茶葉を茶碗に入れて湯を注ぎ、かき混ぜて飲むという日本の抹茶の形式で茶を飲むようになった。これが、日本に伝えられて茶の湯の世界が作られて行く。



さらに中国では明代(1368~1644年)になると抹茶のような飲み方は廃れて、中国式の淹茶(現代日本の煎茶)の飲み方が広まった。これも日本に伝えられて、日本式の煎茶として現代に続く飲み方となったのである。

さて、「茶と唐菓子の伝来-古代日本(7)」でもお話ししたが、遅くとも平安初期に日本に伝えられた茶は、天皇や貴族、僧侶などによって飲まれた。そして茶の栽培は寺院を中心に続けられていたと考えられている。これは、茶の覚醒効果や集中力を高める効果が、仏教の修行に役立ったからだと考えられる。中国の禅宗では茶に関する多くの規則があると言われているが、茶には座禅を行うための眠気覚ましの効果があるからだと言われている。

日本の記録の中で抹茶が最初に現れるのが臨済宗開祖の栄西(ようさい)(1141~1215年)が著した『喫茶養生記』だ。栄西は二日酔いの将軍源実朝に一杯の茶を奉ったと言われており、『喫茶養生記』では茶の薬効や茶木の栽培、喫茶の方法などが総合的に解説されている。このように武家と密接な関係を築いた禅僧によって武士層にも茶の習慣が広まって行った。

鎌倉時代には中国禅宗の中心であった浙江の天目山の寺院に日本から多くの僧が留学した。これらの寺院では天目山の粘土で作った茶碗で茶が飲まれていたが、留学僧がこの茶碗を日本に持ち帰って「天目茶碗」と呼んだ。こうして天目茶碗は茶を飲むのに最適な茶碗として日本で珍重されるようになる。

鎌倉時代から室町時代にかけては「闘茶」と呼ばれる賭け事が京都で大流行する。闘茶の詳細についてはよく分かっていないが、いくつかの種類の茶を飲んで産地の違いなどを言い当て、商品を獲得する遊びと考えられている。このことからも、その当時には多数の茶の産地があり、茶を飲むのも珍しいことではなくなっていたことが分かる。

実際に室町時代には、寺社の門前で茶を売る茶屋や、茶道具一式を天秤棒で担いで茶を売り歩く「担ひ茶屋(にないぢゃや)」が登場し、一般庶民も茶を楽しむようになっていた。

15世紀頃には若い女性が茶をたてる茶屋が現れ、中には店の中で良からぬことをするところもあったそうで、取り締まりも行われるようになったそうだ。そして、時代が進むにつれて「茶屋」は「遊郭」という意味も持つようになって行く。

室町時代の終わり頃になると茶を飲む新しい様式が現れた。それが「茶の湯」である。

茶の湯の定義はなかなか難しいが、釜などの茶道具が置かれた座敷内で、目の前でたてられたお茶を集まった人たちが飲むことと言えば大きな間違いはなさそうだ。

茶の湯の開祖とされるのは浄土宗の僧侶だった珠光(じゅこう)(1422年頃~1502年)だ。彼は戦乱の俗世を離れて奈良の草庵で暮らす遁世の生活を行っており、訪れた人に茶をたててもてなしたと言われている。

16世紀になると京都や奈良、堺などで盛んに茶の湯が行われるようになる。奈良は応仁の乱などから逃げてきた公家などの避難先となって栄えていた。一方、堺は遣明船の発着地となっており、商人の町として栄えるとともに禅宗などの寺院が次々と建てられていた。これらの人々が中心となって茶の湯が行われていたのである。

1569年に織田信長は町人の自治都市だった堺を支配するようになった。そして、堺の有力商人の今井宗久、津田宗及、千宗易は信長に仕えるようになる。やがて信長が倒れ秀吉が後継者になると、千宗易(1522~1591年)が秀吉配下の筆頭の茶人となるとともに政治にも関与するようになった。

千宗易はそれほど大きくない商家に生まれ、19歳の時に父を亡くして跡を継いだ。若いころはそれほど金持ちではなかったので、質素なわび茶を主に行っていた。この経験がわび茶を中心とした茶の湯の世界を完成させることになったと考えられる。

「利休」の名は晩年の数年間だけ使われた。1585年に天皇の前で茶をたてることになった時に無位無官の商人では参内することはできなかったので「利休」と言う僧になったのである。その後、利休はなぜか秀吉の怒りをかって切腹を命じられ、1591年に70年あまりの人生を終えることになる。

千利休が完成させたとされる茶の湯の特徴は、草庵茶室と呼ばれる三畳や二畳という狭くて質素な茶室で、地味な色調を持ちながらも端正な形状の茶道具を用いて茶をたてるという点にあると言われている。彼は、こうした茶室と茶道具に人々の所作が一体化した「一期一会」のひと時を創出しようとしたのだろう。利休が大成した茶の湯の様式は彼の弟子たちを介してその後の茶の湯の世界に大きな影響を与えた。