食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

精進料理の進化-中世日本の食(3)

2021-01-07 12:08:26 | 第三章 中世の食の革命
精進料理の進化-中世日本の食(3)
精進料理と言ったら皆さんはどのようなものを思い浮かべるでしょうか。お坊さんが食べている料理でしょうか。

ちなみに、仏教の創始者の釈迦は肉を食べていたと言われており、釈迦が亡くなったのはお布施でもらった肉粥にあたったからだという話もあります。

現代日本の精進料理ができるまでにはいくつかの段階を経ましたが、そのおおよその形が現れたのは中世だと言われています。そこで今回は、中世の日本で進化した精進料理について見て行きます。

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インドの初期仏教では動物の命を奪うことは禁じられていたが、次の3つの条件に合った肉(三種の浄肉と呼ぶ)は施し(托鉢)を受けても良いことになっていた。

1.殺されるところを見なかった肉
2.自分に供されるために殺されたと聞かなかった肉
3.自分に供されるために殺されたことを知らない肉

人が生きていくためには生き物の命を奪う必要があるのだが、仏教徒はそれに直接関わらずに、余りものを恵んでもらうことで生をつなぐことが重要と考えられていたのである。

インドから中国に大乗仏教が伝わると肉食が禁止されるようになる。中国では托鉢で十分な食を得ることができず、僧が自ら食材を集める必要があったため、肉食を禁じて野菜だけを食べるようになったと言われている。

この戒律が日本にも伝えられることで日本の仏教でも肉食が禁止されるようになるのだが、一方で日本独自の肉食のタブーが既に存在していた。その一つが神聖な肉を食べないというものである。

例えば、奈良の春日大社ではシカが神の使いであり、神官や氏子は絶対にシカ肉を食べてはいけない。同じ理由で八幡宮を信仰する人々はハトや他の鳥類を食べることはタブーとされていた。ニワトリも時を告げる神聖な鳥であったので、食べてはいけなかった。

また、ウシやウマ、イヌなど労働力として人の役に立つ動物も食べないようにするという実利的な考え方もあったようだ。

天武天皇が675年に出した詔(みことのり)では、ウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリを食べることを禁じている(それ以外は許されている)が、恐らくそこには宗教的なタブーと実利的な理由があったのだろう。

このように日本には肉食を避ける考えが元からあったため、大乗仏教の肉食を禁止して野菜を食べるという考え方も比較的すんなり受け入れられたのだと思われる。

実際に西暦1000年頃に書かれたと言われている『枕草子』には「精進(物)」という言葉が何度も出て来る。ただし、「思わん子を法師になしたらんこそは、いと心苦しけれ。(中略)精進物のあしきを食ひ…(訳:かわいいと思っている子を法師にしているとすると心苦しい。(中略)精進料理の粗末なものを食べて…)」とあるように、当時の精進料理は「粗末でまずい食べ物」というイメージがあったようだ。

というのも、平安時代の料理はほとんどが生ものか乾燥させたもの、あるいは焼いたもので、味はついていないので食べる時に塩や酢をつけて食べていた。野菜は多くの場合は生で食べたと思われるが、とても美味しいとは思えなかったはずだ。

この不味い精進料理が美味しいものに進化するのが鎌倉以降の時代だ。そこで中心的な働きをしたのが「鎌倉新仏教」の禅宗の僧たちだ。鎌倉新仏教とは鎌倉時代に新たに開かれた仏教宗派で、浄土宗(法然)や浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、法華宗(日蓮)、そして禅宗の臨済宗(栄西)と曹洞宗(道元)がある。

鎌倉新仏教の中でも禅宗はその時代の主人公であった武士層に支持され、その影響を受けて公家や民間にも広まって行った。鎌倉時代には建長寺を第一位とする五山の禅宗寺院が北条氏によって鎌倉に建立された。また、室町時代には南禅寺を第一位とする五山十刹の禅宗寺院が足利氏によって京都に建てられた。これらの寺院は幕府と密接な関係を持ち、政治や文化に大きな影響力を示した。この禅宗の僧たちが留学先の中国(宋)から革新的な精進料理を持ち帰ってきたのである。

禅宗では食事を作ることと食べることは大切な修行の一つとされている。このため、禅寺で食事を作る技術が発達するのは必然だったのである。

ちなみに、曹洞宗の開祖の道元が著した『典座教訓(てんぞきょうくん)』と『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』にはコメの一粒までを大切にする心の重要性が説かれており、この精神を基にして永平寺の精進料理が生まれたと言われている。日本では昔からコメの一粒一粒に「稲魂(いなだま、うかのみたま:伏見稲荷の主祭神)」という神霊が宿るとされていて食物を大切にする精神が受け継がれてきたが、禅宗の考えはこれに合致しているため日本人には受け入れやすかったのだと思われる。

さて、禅僧による革新的な調理技術の一つが野菜を「煮る」ことであった。平安末期から鎌倉時代にかけて鉄製の鍋などの調理器具が発達したことも関係しているのだが、それまで生で食べていた野菜を味付けして煮込み、温かいまま食べるようになったのである。これは日本料理の歴史の中でも非常に画期的な出来事であったと考えられる。

革新的な技術のもう一つがダイズやコムギを使った「加工食品」の製造である。その代表的なものが「豆腐」だ。



豆腐にはタンパク質と脂質が豊富に含まれており、また消化・吸収されやすいため、動物性食品を摂らない精進料理ではとても重要なものだ。さらに、淡白な味や白色で見栄えが良いことも人気の一つである。

豆腐が最初に作られたのは中国で、その時期については諸説あるが、8世紀から9世紀にかけての唐代中期と言う説が有力だ。

日本の歴史で最初に豆腐が登場するのは1183年の春日大社の記録であり、この頃までには既に日本に伝えられていたと考えられる。その後豆腐は鎌倉時代から室町時代にかけて寺院を中心に上流階級で普及し、室町時代の後期には一般庶民にも広まった。また、16世紀の戦国時代には凍り豆腐(高野豆腐)が作られるようになったと言われている。

豆腐以外のダイズの加工品としては「湯葉(ゆば)」が重要だ。湯葉はダイズのタンパク成分を濃縮したようなものであり、タンパク質の少ない精進料理で栄養価の高い食品として重宝された。湯葉は豆乳を煮る時に上面にできてくる薄い膜をすくい取って作るが、この製法は鎌倉時代に禅憎が伝えたとされている。

一方、コムギに含まれるタンパク質を凝縮したものが「麩(ふ)」である。このコムギの加工食品も鎌倉時代に禅僧によって日本に伝えられたが、室町時代になると一般庶民にもかなり普及した。特に京都は当時から現代にいたるまで麩の名産地で、「麩屋町通」という名前の道が京都市内に残されている。

鎌倉時代の精進料理ではコンニャクを味噌で煮たものも食べられており、鶏肉のカスという意味の「糟鶏(そうけい)」と呼ばれた。これが「おでん」の元祖だと言われている。

以上のように、精進料理の発展によって現代でもなじみのある様々な食品が日本に登場することになったわけであるが、実は禅僧たちが日本の食の歴史に遺した功績はまだまだある。
次回も彼らの活躍について見て行きたいと思います。

戦いの時代と食の革命

2021-01-04 20:31:41 | 第三章 中世の食の革命
戦いの時代と食の革命-中世日本の食(2)
前回は平安時代の終わりから鎌倉時代の終わりまでの社会と食の変化について全体像を概観しましたが、今回も室町時代の始まりから戦国時代の終わりまでの全体像を見て行きたいと思います。

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1333年に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は、関白と摂政を廃止するなど新しい政治を目指した。これを建武の新政と呼ぶ。

一方、討幕に参加した御家人たちは足利尊氏による新しい武家政治を望んでいた。この声にこたえる形で尊氏は1336年に新しい天皇(光明天皇)を擁立し、1338年には征夷大将軍に任命された。

ところが、都を脱出した後醍醐天皇は現在の奈良県の吉野に逃れて南朝を建てる。それから50年以上にわたって、朝廷は京都の北朝と吉野の南朝の2つに分かれて対立した。また、各地の武士たちも北朝側と南朝側に分かれて抗争を繰り返した。

このような動乱の中で各地の武士勢力の再編成が進んだとされている。鎌倉時代に地頭に任じられていた武士たちは農民への支配を強めるとともに、近隣の荘園を侵略したり、他の地頭や武士と連携を深めたりすることで力を伸ばして行った。このような在地の領主は「国人」と呼ばれる。

また、守護に任じられていた者も地方での裁判権や年貢の半分を受け取る権利を室町幕府から与えられたことなどを利用して支配力を高め、国人を家臣に迎えるなどして勢力を大きく伸ばした。こうした守護を「守護大名」と呼ぶ。

南北朝に二分されていた体制も次第に北朝が優位となり、1392年の足利義満の時代になって両朝が合体する。そこで義満は守護大名の力を抑え込む政策を進めるとともに、幕府の財政強化に努めた。しかし、義満の死後は、義満に抑えられていた守護大名の勢力が強まった。

また、この頃には農民や商人などの民衆の団結力が強くなり、「一揆」によって幕府などに要求を行うようになった。しかし、幕府はこれらの一揆を抑えることができなかったため、幕府の権威は低下して行った。

このような中で「応仁の乱(1467~1477年)」が起こる。この乱は幕府の要職(管領)についていた畠山氏と斯波氏の家督争いから始まったが、将軍家や有力守護大名を巻き込んだ大乱となり、京都が焼け野原になるだけでなく、それぞれの領国にも争いが拡大することとなった。

乱が終わった後も守護大名間の争いは各地でくすぶり続け、民衆も頻繁に一揆を起こした。さらに家臣が主君を武力で倒す「下剋上」も全国に広まって行った。こうして世の中は「戦国時代」に突入する。

戦国時代には中央権力から独立して国内を独自に支配する「戦国大名」が多く現れた。なお、守護から戦国大名になったのは武田、今川、大友、島津などだけで、ほとんどは下剋上によって成り上がった者たちだった。戦国大名たちは15世紀末から約100年間にわたって戦い続けることになる。

その間の1543年にはポルトガル人によって火縄銃が伝えられた。また、ポルトガルの宣教師によってキリスト教の布教が始まり、南蛮料理や南蛮菓子などのヨーロッパの文化も日本に伝えられた。

そして1573年に足利義昭が織田信長によって京都から追放されることで室町幕府は滅ぶ。織田信長が1582年に本能寺の変で倒れたのちは羽柴秀吉が後継となり、1591年に天下統一を果たした。


秀吉が行った政策の中で社会体制に最も大きな影響を与えたのが「太閤検地」である。これは全国の田畑について所有者と大きさ、収穫量を調べたものだが、中央の政権が各地方の生産量(石高)を把握する以外に、複雑だった土地の権利関係を単純化するという大きな意味があった。

それまでの農地には公家や寺社などの複数の権利者がいる場合があり、税の動きを正確に把握することが難しかったのだが、農地ごとに所有者を決め納税の義務を負わせることで権利関係を単純化し、徴税をやりやすくしたのである。

また、農地の所有者が決まったことによって農民が土地から離れられなくなり、生産性が上がった。それまでは武士と農民の区別があいまいなところがあり、戦が起こると放置される農地が出ていたのだが、太閤検地で農民を土地に縛り付けることで農業生産力を維持しやすくなったのだ。さらに、同時期に行われた刀狩りによっても、武士と農民の区別がはっきりした。

こうして長らく続いた荘園制は完全に姿を消すことになったのであるが、これをもって日本の中世の終わりとする考え方が主流となっている。

さて、食の世界でもたくさんの革命的な出来事があったのが室町・戦国時代だ。また、現代でもなじみのある食品や食生活が多く生まれたのもこの時代である。

まず、この時代に茶の湯の世界が大きく発展したことがあげられる。抹茶は鎌倉時代末期に中国から伝えられたが、それが広く日本の武家社会に根付き、独自の発展を遂げるのがこの時期である。茶道を完成させたのは千利休であるが、彼は「懐石(料理)」の誕生においても重要な役割を果たしている。

茶とともに中国からもたらされたのが「点心」と呼ばれる料理だが、これが室町・戦国時代そして江戸時代の日本で独自の進化を遂げることで、現代の私たちも食べている「豆腐・そうめん・うどん」や「饅頭・羊羹」などが生み出される。つまり、和菓子の原型もこの時代に作られるのである。

また、室町時代には北海道産のコンブが京都を中心に流通するようになり、昆布出汁の料理が作られるようになった。

酒造りでも革新的な技術が開発・利用されるようになったのも室町時代で、濁りがない「清酒」の製造方法や「段仕込み(だんじこみ)」と呼ばれる日本酒独特の醸造方法が開発された。

次回からは、このような中世の様々な食に関する話題について個別に見て行く。

(なお、ポルトガル人のような南蛮人の渡来にともなって「南蛮菓子」や「南蛮料理」がもたらされるが、これらについては「近世」の章でお話しします。)

武士の時代の始まりと食の進化

2021-01-02 17:18:04 | 第三章 中世の食の革命
3・6 中世日本の食
武士の時代の始まりと食の進化-中世日本の食(1)
今回から中世日本の食について見て行きます。

日本の中世がいつからいつまでを指すのかは人によって少し異なっているようですが、ここでは近年の教科書などで中世とされている、平安時代末期ごろから鎌倉時代と室町時代を経て、太閤検地の手前までを扱うことにします。

今回は中世日本の始まりから鎌倉時代の終わりまでの、社会と食の変化について全体像を概観していきたいと思います。

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日本の中世の最大の出来事としては、武家政権によるに支配の始まりを挙げることができる。それまでは天皇の政権である朝廷が全国を支配していたが、力をつけた武士が政治権力を掌握したのである。

武士の始まりには諸説があって決着が着いていないが、武装化した地方の豪族が朝廷・貴族の護衛や地方の治安維持の役割を与えられることで勢力を拡大したと言われている。地方では平将門や藤原純友のように反乱(承平・天慶の乱:935~941年)を起こすものがあったが、これらの平定に平氏と源氏が活躍したため源平二氏が武士の中心となって行った。

武士の勢力拡大の追い風になったのが「荘園公領制」と呼ばれる土地制度だ。荘園とは貴族・寺社・武士が私有した土地のことで、公領は朝廷が支配した土地のことである。荘園と公領の管理には複雑な利害関係が絡み合っており、これらをめぐって紛争が絶えなかったため武士が活躍することになったのである。このような中で平氏は西国で、源氏は主に東国でそれぞれ勢力を伸ばした。

平安末期には上皇(退位した天皇)による院政が行われた。この時期には上皇たちが仏教を篤く信仰したため大寺院の発言力が高まり、延暦寺や興福寺などの僧侶たちが朝廷に強訴(集団で朝廷に対して行なった要求)を行ったりした。これに対して上皇は源平二氏に警護を任せたため、源氏と平氏はさらに力を伸ばして行った。

源氏と平氏が政権内での確固たる力を示すことになったのが「保元の乱(1156年)」である。この乱は皇室と摂関家の内部対立から起きた争いで、源平二氏もそれぞれ2つに分裂して戦い、源義朝と平清盛の力によって後白河天皇・藤原忠道が勝利した。この乱によって朝廷内の争いも武家の力無しでは解決できないことが明らかになったのである。

さらに1159年には後白河上皇の近臣同士の争いから「平治の乱」が起きる。この乱では平清盛が源義朝を倒して平氏が武家の棟梁の地位に立った。平氏は多くの荘園や知行国を得るとともに、一族の多数の者が高位高官につき、栄華を極めることになる。

ところが、1180年に平清盛が孫を安徳天皇としたところ、後白河法皇の皇子の以仁王(もちひとおう)が源氏を味方に付けて平氏打倒の兵を挙げた。こうして始まった源平合戦の結果、平氏は1185年に壇ノ浦の戦いで滅亡した。

源氏の棟梁の頼朝は朝廷に、それぞれの国には守護を各地の荘園と公領には地頭を置くことを認めさせ、御家人を配置した。その結果、諸国は朝廷が任命する国司・荘園領主と、幕府が任命する守護・地頭による二重支配が行われるようになった。1192年に後白河法皇が死去すると、頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府が誕生した。


源頼朝

頼朝の死後は、頼朝の妻政子の父である北条時政が「執権」となって実権を握った。それ以降は北条氏が執権の座を独占することになる。

1221年に後鳥羽上皇は幕府打倒の兵を挙げたが鎮圧される(承久の乱)。乱後には、朝廷を監視する六波羅探題が京都に置かれ、上皇に加担した貴族と武士の土地を取り上げて新たな地頭を任命した。こうして幕府による全国支配がほぼ達成された。

さて、鎌倉時代は日本の「中世の農業革命」と呼べる農業技術の発展が見られた時期だ。鉄製の丈夫な農具をウシやウマに引かせることで農地を深く耕すことができるようになり、生産性が著しく向上したのだ(この点はヨーロッパにおける中世の農業革命によく似ている)。また、同じ耕地で一年のうちに2種類の作物を栽培する「二毛作」も始まった。

このような農業生産力の向上によって経済活動も活発になった。各地で市が開かれ、さまざまな物品の商取引が行われるようになったのである。

食事の面でも大きな革新が見られたのが鎌倉時代であった。それまでの日本には冷めた料理しかなかったが、次第に暖かい料理が作られるようになるのである。また、現代の日本人も飲んでいる「味噌汁」が誕生したのも鎌倉時代だ。「抹茶」もこの時代に中国から伝えられる。


北条氏による執権政治は比較的安定していたが、1274年と1281年の元寇(蒙古襲来)によって揺らぎ始める。御家人たちは「てつはう」と呼ばれる火薬を利用した武器や毒矢の攻撃に苦戦しながらも蒙古軍を追い払ったが、大きな出費の割に十分な恩賞が得られずに困窮して行った。

また、その頃には北条執権家による専制政治が進んでおり、他の武士たちの不満も蓄積していた。さらに、西国を中心に幕府に属さない「悪党」と呼ばれる武士たちの勢力も大きくなっていた。

このような状況で討幕を試みたのが後醍醐天皇である。後醍醐天皇は楠木正成、足利尊氏、新田義貞らの協力を得て、1333年に討幕を成功させた。こうして北条氏は滅亡し、鎌倉時代は幕を閉じるのである。

ポルトガルとジェノヴァと大航海時代前夜-中世後期のヨーロッパの食(6)

2020-12-30 23:24:03 | 第三章 中世の食の革命
ポルトガルとジェノヴァと大航海時代前夜-中世後期のヨーロッパの食(6)
日本人にとってポルトガルはなじみの深い国です。1543年にポルトガル人が鉄砲を伝えた話や、1549年にポルトガル宣教師「フランシスコ・ザビエル」が来日した話はとても印象深いため、ずっと記憶に残るようです。また、コンペイトウ(金平糖)やカステラなどポルトガルから伝わったとされるお菓子もよく知られています。

このように遠く離れた日本に人や物品を送ることができた海洋大国のポルトガルですが、もともとはカスティーリャ(スペイン)から何とか独立できた小さな国でした。それでは、この西の果ての小国はどのようにして海洋大国に成長して行ったのでしょうか。

今回は海洋大国への道を歩み始めたポルトガルのお話です。

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レコンキスタを進めていたカスティーリャ=レオン国王のアルフォンソ6世は1096年に、現在のポルトガルの北半分を娘婿のアンリ・ド・ブルゴーニュに治めさせた。1112年にアンリが没すると、アンリの妻アリサ陣営と息子のアフォンソ・エンリケス陣営の間で領地争いが勃発したが、アフォンソが勝利をおさめた。

その後アフォンソはレコンキスタを進めるとともにカスティーリャ=レオン国王のアルフォンソ7世と交渉を行い、1143年にアルフォンソへの臣従を条件としてポルトガル王国の建国が認められた。そして1147年に十字軍の助けを借りてリスボンを征服する。

初代国王の遺志を受け継いだアフォンソ3世は1249年にイスラム勢力を駆逐し、ポルトガル内のレコンキスタを完了させた。そして1255年、リスボンがポルトガル王国の新しい首都となった。

リスボン(ポルトガル語:Lisboa)は大西洋からテージョ川を13㎞ほどさかのぼったところに位置しており、15世紀以降海外進出の拠点となった良港を有している。また、ポルトガル北部の都市ポルトの港も大航海時代に貿易の一大拠点として活躍した。


リスボンの街並みとテージョ川

ポルトの港もリスボンの港と同じようにドウロ川の河口近くに作られた港だ。このように河口近くの港が木造船にとっては良い港とされていた。と言うのも、真水では船を破壊するフナクイムシや船を重くするフジツボなどが付かないために船を泊めておくのに最適だからだ。また、しけや外敵からも船や積み荷を守りやすいのである。

イスラム勢力を追い払ったことで地中海西部の自由な航行が可能になると、イタリアの湾口都市の商人がポルトガルにやって来るようになった。特にジェノヴァの商人はポルトガルの海外進出に大きな役割を果たすことになる。

実はこれにはジェノヴァなりの理由があった。ジェノヴァは西に進出する必要があったのだ。少し長くなるが、これについてお話ししておこう。

ジェノヴァはヴェネツィアやピサなどの他のイタリアの湾口都市とともに、東方世界から入って来る香辛料などの貿易で栄えていた。また、北アフリカのムスリム商人と金や奴隷の貿易も行っていた(中世の西ヨーロッパではローマ・カトリック以外の人間は奴隷として売買されていた)。

さらに、西ヨーロッパの商業が発達してくると、ジェノヴァはその交易にも参入するようになった。1277年にはジブラルタル海峡を越えて大西洋沿岸を進み、現在のベルギーのブルージュに船を送っている。こうしてハンザ同盟と交易を行うようになった。

ポルトガルのリスボンやポルトの商人もジェノヴァの商人たちと同じようにハンザ同盟との交易を行った。実は、これらの都市にはジェノヴァの商人たちが移住してきており、彼らの助けを借りて船を造り交易を行ったのである。

さらに14世紀半ば以降になると、オスマン・トルコが東地中海に進入を始めたことや、地中海での覇権をかけたヴェネツィアとの戦いに敗れたこと、そしてジェノヴァでの内紛などによって、ジェノヴァの資本や商人たちの多くが主にポルトガルに(そしてスペインにも)逃げてくるようになった。こうしてポルトガルは、ジェノヴァの資本と技術支援を受けて海外進出を本格的に行うようになったのだ。

1415年にポルトガル王ジョアン1世はジブラルタル海峡をはさんだ対岸のセウタを征服した。そして1419年からはセウタ征服に参加した「エンリケ航海王子(1394~1460年)」の下で西アフリカ方面の探検が始まった。そして、まずマデイラ諸島とアソーレス諸島を発見する。続いて1450年過ぎにカーボ・ヴェルデ諸島が見つかった。


リスボンの発見のモニュメント(右側先頭がエンリケ航海王子)

マデイラとカーボ・ヴェルデではサトウキビが栽培され、生産された砂糖がヨーロッパに運ばれて莫大な富を生み出した。また、アソーレスはブドウとコムギの一大産地になった。この成功によってジェノヴァ人も大きく潤ったということだ。



さらにエンリケの部下たちはアフリカ沿岸部の探検を進めて、西アフリカ地域と金や奴隷の交易を始めた。このアフリカ沿岸部と島々の探検はエンリケが没した後も続けられ、主に奴隷貿易が熱心に進められた。そして、この奴隷を用いて砂糖のプランテーション(欧米人が奴隷などの安価な労働力を利用して砂糖などの単一栽培を行う農業経営)が行われる。やがてこの経営形態が「新大陸」に持ち込まれるのである。

(これでヨーロッパの中世時代のお話は終わりになります。次回からは東の果ての「日本」の中世の食が始まります。)

レコンキスタとイベリコブタ-中世後期のヨーロッパの食(5)

2020-12-28 20:28:32 | 第三章 中世の食の革命
レコンキスタとイベリコブタ-中世後期のヨーロッパの食(5)
「レコンキスタ (Reconquista)」とはスペイン語で「再征服」という意味で、イスラム勢力によって奪われたイベリア半島をキリスト教徒の手に取り戻す「国土回復運動」のことを指します。

このレコンキスタの達成によって、大航海時代前半の主役となる「ポルトガル王国」と「スペイン王国 (帝国)」が誕生します。

今回はレコンキスタとスペインの名産品「イベリコブタ」について見て行きます。

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イスラム勢力は711年に北アフリカからジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に進入し、ゲルマン民族が建てた西ゴート王国を滅ぼした。その結果、715年までに最北部を除いてイベリア半島の全域はイスラム勢力に支配される。

そして756年にウマイヤ王家のアブド・アッラフマーンによって後ウマイヤ朝(756~1031年)が建国された。首都はコルドバであり、10世紀には西ヨーロッパ最大の都市として繁栄した。なお後ウマイヤ朝では、キリスト教徒とユダヤ教徒は税金を納めれば信仰と財産の保有が認められていた。



イスラム勢力が支配したことによって、イベリア半島にイスラムの進んだ技術が持ち込まれ、その結果イベリア半島はそれまでよりも大きな発展を遂げることになる。例えば、水車を用いた灌漑技術が導入され、荒れ地の開拓が進んだことによって農地が大きく拡大した。

新しい農地では、コメやオリーブ、レモン、オレンジ、ナツメヤシ、サフランなどが栽培された。なお、オリーブはそれより以前にギリシアから持ち込まれていたが、ムスリムがオリーブオイルの美味しさに気が付いて栽培を拡大させたのだ。

ところで、コメ・オリーブオイル・サフランはどれもスペインの国民的な料理「パエリア」の材料だ。パエリアは肉や魚介類、野菜をオリーブオイルで炒めた後、コメとサフランを加えて平たいフライパン(パエリア鍋)でスープと一緒に炊きこんだ料理だ。スペインでは日本と同じようにイカやタコ、エビ、貝などの魚介類をよく食べるが、これらはハラルであるため(イスラム法で許されているため)ムスリムも食べたのである。このようにパエリアはイスラムの食文化を起源としている。

また、ムスリムの造船や操船の技術はインド洋という外洋を航行するためヨーロッパより進歩していたが、これがイベリア半島に伝わったことで大航海時代にスペインやポルトガルが使用する船舶に利用されることになった。

さて、一時期は繁栄を極めた後ウマイヤ朝であったが、後継者争いなどによって衰退し、1031年に滅亡した。すると、イスラム勢力はタイファと呼ばれる小王国に分裂したため勢力が衰え、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)が勢いを増すことになった。

なお、イベリア半島の北部では718年にキリスト教国のアストゥリアス王国が建国されており、この年がレコンキスタ元年とされることが多い。その後、レオン王国やカスティーリャ王国、アラゴン王国などのキリスト教国が建国され、領地回復の戦いを続けた。

11世紀に優位に立ったキリスト教国であったが、その後は北アフリカのイスラム教国の介入などによって一進一退を繰り返した。そして12世紀の終わり頃になると、今度は北アフリカのイスラム教国ムワッヒド朝の攻勢によってキリスト教国は窮地に立たされることとなる。

これを救ったのがローマ教皇インノケンティウス3世だ。彼が西ヨーロッパ各国に「十字軍による聖戦」を呼びかけた結果、キリスト教連合軍が結成される。連合軍とムワッヒド軍は1212年に現在のアンダルシア州北部のナバス・デ・トロサで大規模な戦闘を行い、キリスト教連合軍が大勝利をおさめた。これ以降、イベリア半島ではムワッヒド朝の支配力は急速に衰え、小さなイスラム勢力の国々が残るのみとなった。

カスティーリャ王国とアラゴン王国、そしてカスティーリャから独立したポルトガル王国は次々とこれらの小国を滅ぼし国土を拡大して行った。そして、カスティーリャ王国とアラゴン王国の統合によって誕生したスペイン王国が1492年にイスラム勢力の最後の拠点グラナダを攻撃し、アルハンブラ宮殿を無血開城させてレコンキスタが完成する。ちなみに、同じ年にはスペイン王の命を受けたコロンブスが大西洋の横断に成功している。


アルハンブラ宮殿(Pablo ValerioによるPixabayからの画像)

領土を回復したスペイン王国はユダヤ教徒の財産を没収して国外に追放した。また、当初は信仰を認めていたイスラム教徒に対しても最終的に追放令が出された。スペインに留まることが許されたのは、キリスト教(ローマ・カトリック)に改宗した者だけだった。

さて、スペインは豚肉をよく食べる国である。国民1人当たりの豚肉消費量はEUの中でもトップクラスで、1年間に約40キログラムもあるそうだ(日本人は15キログラムくらい)。また、イベリア半島南西部の山間部で育てられる「イベリコブタ」はスペインの特産品で、日本人にも大人気だ。

イベリコブタの最大の特徴は肉の中に霜降りがあることだ。イベリコブタには等級があり、最高級のベジョータは樫の木の森で放牧して2ヶ月以上どんぐりの実を食べさせたものだけに与えられる等級だ。こうすることで肉質とともに赤身と霜降りのバランスが良くなり、とても美味しい豚肉になると言われている。


イベリコ生ハム(Ben KerckxによるPixabayからの画像)

ところで、スペインが豚肉好きなったのはイスラム教徒やユダヤ教徒に対する反発があったからだという説がある。豚肉はイスラム教でもユダヤ教でも食べてはいけない肉だ。その肉をたくさん食べることで「キリスト教徒」であることを誇ったというのだ。また、表面上だけキリスト教に改宗したイスラム教徒やユダヤ教徒に対する「踏み絵」という意味もあったと言われている。

しかし、一番大きな理由は自分たちが作った豚肉(特にイベリコブタの肉)がとても美味しかったからだと私は思っている。