食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

タイユヴァンの料理書と中世のフランス料理-中世後期のヨーロッパの食(4)

2020-12-26 17:58:12 | 第三章 中世の食の革命
タイユヴァンの料理書と中世のフランス料理-中世後期のヨーロッパの食(4)
「タイユヴァン(Taillevent)」はパリにあるレストランで、30年以上にわたってミシュランの3つ星を獲得している名店です。

この「タイユヴァン」という名前は14世紀のフランスで活躍した料理人ギヨーム・ティレル(1310~1395年)の別称で、「風を切る」という意味合いだそうです。風を切るように勢いのある料理を作ったということでしょうか。

タイユヴァンがフランス料理の名店の名前として使われる理由は、彼がフランス料理の基礎を築くという大きな足跡を残したからです。彼の偉大な業績の一つに『ル・ヴィアンディエ (le Viandier)』という料理書を書いたことがあげられます。これは、ローマ帝国以降のヨーロッパで最初の本格的な料理書と言われています。そして、1651年に料理人のラ・ヴァレンヌが『フランスの料理人 (le Cuisinier français)』という料理書を出すまでの長い間、フランス料理の手引き書となりました。

今回は『ル・ヴィアンディエ』を通して中世後期のヨーロッパの料理について見て行きたいと思います。



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ギヨーム・ティレル(タイユヴァン)は少年の頃に料理の申し子と呼ばれたほどの早熟の天才だった。彼は1325年頃から宮廷の料理人として働き始め、やがてフィリップ6世やシャルル5世、シャルル6世など歴代のフランス国王の専属料理人として腕を振るった。

シャルル5世は本好きで知られており、タイユヴァンは彼から料理書を書くように命じられたと言われている。そうして出来上がったのが『ル・ヴィアンディエ (le Viandier)』である。Viandierとは本来は肉という意味だが、当時は料理という意味でも使用されており、ル・ヴィアンディエは「料理書」と訳すのが適当とされている。

本を書くと言っても印刷技術が進んでいなかった時代であり、タイユヴァンは手書きで料理のレシピなどを書き留めて行った。タイユヴァンの手稿は1373年から1380年にかけて書かれたものだと言われているが、数多くの料理人によって写本が繰り返されながら受け継がれて行った。そして1486年頃になって初めて活字本として印刷される。このため、多くの部分に他人の手が加えられていると推測されているのだ。とは言え、『ル・ヴィアンディエ』が14~15世紀のフランス料理の様子をつまびらかに伝えていることは間違いない。

ここで、『ル・ヴィアンディエ』のレシピを見る前に中世後期のヨーロッパの料理について概観してみよう。

中世後期は料理の世界に大きな変化が見られた時期である。その一つが味付けの変化だ。

中世の味付けは今よりもずっと酸味が効いていたと考えられている。ワインビネガーや未熟ブドウ果汁が料理の材料によく使用された。ここに大量の香辛料を加えた、酸っぱくて辛味のきいたものが中世の基本的な風味である。なお、香辛料はガレノスの「四体液説」で体のバランスを整えるのに有効であると考えられていたため、大量に使用されていたのだ。

中世後期になると、ここに甘味が加わるようになる。サトウキビが地中海西部地域で栽培されるようになり、ヨーロッパ全体に流通する砂糖の量が次第に増えて行ったことがこの理由の一つと考えられる。また、14世紀に砂糖の甘味が香辛料の辛さを和らげる効果があることが見つかったことも関係している。こうして、中世後期の料理は「酸っぱい」ものから「甘酸っぱい」ものへと変化して行った。

使用される香辛料にも変化が見られた。

ローマ帝国では香辛料の中でコショウが最もよく使用されていた。中世に入ってもコショウは人気であり、中世盛期でもよく使用されていた。しかし、中世後期になるとコショウの使用量が減少するのである。この理由に、ヴェネツィア商人などが行った地中海貿易によって大量のコショウが手に入るようになり、ありがたみが薄れてしまったことがあると考えられている。

コショウに代わって香辛料の王様の位置を占めたのがショウガである。ショウガは日本では生のまま使うが、欧米では乾燥させてパウダー状にしたものを使うのが一般的である。『ル・ヴィアンディエ』でも、ショウガパウダーが料理の香りづけによく使用されている。

また、それまでほとんど使用されていなかったバターが少しずつ使われるようになったことも中世後期の特徴だ。バターはもともと遊牧民が食べていたため、古代ローマでは野蛮人の食べ物とされ、整髪料や塗り薬として使われていた。それが中世後期になると主にヨーロッパ北部で食べられるようになったのである。

中世後期になると、上流階級の食事では、出される皿の数も増えて内容も豪華になった。例えば『ル・ヴィアンディエ』では、次のようなものが宴会のメニューとして記載されている。

第1サービス:去勢ニワトリのスープ、雌鳥の香草風味、新キャベツと猟獣肉
第2サービス:くじゃくのセロリ風味、去勢ニワトリのパテ、仔野ウサギのヴィネガー風味
第3サービス:甘味の山ウズラ、猟獣肉のパテ、ハトのエテュヴェ(蒸し煮)、ゼリー寄せと細切り肉
第4サービス:焼き菓子、クレーム・フリット(カスタードクリームに衣をつけて揚げたもの)、洋ナシのパテ、スイートアーモンド、クルミと洋ナシ

このように多種類の料理が出されるようになると、短時間で料理を作って皿に盛り、客に給仕することが難しくなったしまった。そこで各サービスの間に「アントルメ」と呼ばれる演じもので客を楽しませるようになった。

アントルメは現代では甘いデザートのことを言うが、中世では料理と料理の間の余興のことを指した(メは料理、アントルは間を意味する)。古代ローマで料理の間に各種の芸や音楽、劇を楽しんだのだが、これを真似て始められたとされている。アントルメでは、芸や音楽と同時に生きているように作ったツルやクジャクの料理なども出されたらしい。

それでは最後に、『ル・ヴィアンディエ』に記されているレシピをいくつか紹介しよう。

①イポクラス:タイユヴァンがヒポクラテスの処方から考案した香草や香辛料を加えたワインのこと。ルイ14世の時代まで、食前と食後に薬用酒としてよく飲まれていたという。
(作り方)ワイン1パント(930ml)に粉末のメース(ナツメグの種子のまわりの網目状の赤い皮の部分)3.8g、シナモン11.4g、丁子(クローブ)1.9g、砂糖180gを混ぜ、粉が沈んだら布でこして出来上がり。

②ガリマフレ:鶏肉もしくは羊肉を煮込んだ料理のこと。ガリマフレはフランスのピカルディ地方の方言で「がつがつ食う」という意味で、現代では「不味い料理」を意味する。
(作り方)骨ごとぶつ切りにした鶏肉をラードもしくはガチョウの脂で揚げ、ワイン、未熟ブドウ果汁、香辛料、ショウガパウダーで煮る。カムリーヌ(次参照)と塩をつけて食べる。

③カムリーヌ:香辛料と酸味の強い冷製ソースのこと。
(作り方)パンをキツネ色になるまで焼き、赤ワインにひたして裏ごしする。酢、シナモン、しょうが、丁子、メース、コショウを加えて裏ごしして出来上がり。

④中世のウナギの煮込み料理
(作り方)内臓を取ったウナギをゆがいて皮をむき、筒切り(背骨がついたまま輪切りすること)にする。これを鍋に入れ、輪切りにして揚げたタマネギ、ローストしたパン粉、マメのピュレ、水、ワインと一緒に沸騰させる。さらに、ショウガパウダー、シナモン、丁子、サフラン、未熟ブドウ果汁を加え煮込む。酸味を強くするのが美味しくいただくコツ。

⑤カモの白いドディーヌがけ:ドディーヌは中世で最も好まれたカモ料理用ソースの1つ。
(作り方)カモを下処理し、大串に刺してローストする。牛乳とショウガパウダーを少々入れた鍋をローストしているカモの下に置いて、脂と焼き汁を受け止める。その後、卵黄と塩を加えてよく混ぜ、布ごしする。好みで砂糖を加えて混ぜながら沸騰させる。肉に火が通ったら上からかけて出来上がり。

どれも美味しそうな感じがするが、現代人の舌にはなかなか合わないもののようだ。

ニシンとハンザ同盟とオランダ-中世後期のヨーロッパの食(3)

2020-12-24 23:19:34 | 第三章 中世の食の革命
ニシンとハンザ同盟とオランダ-中世後期のヨーロッパの食(3)
もう少しで今年も終わりますね。大みそかには年越しそばを食べる人も多いと思いますが、年越しそばも地域によって様々に変化するようです。ちなみに、私は京都出身なので、年越しそばは「にしんそば」になります。京都南座の松屋が明治15年に始めた「にしんそば」が大評判になり、いつしか京都では年越しそばとして食べられるようになったということです。

さて、ニシンですが、中世の庶民にとって魚と言えばニシンだったと言われています。その理由は、北の海でニシンがたくさん獲れたからです。

中世ヨーロッパでニシンの加工や輸送に活躍したのが「ハンザ同盟」とオランダでした。今回はこのニシンとハンザ同盟、そしてオランダのお話です。



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ニシン(鰊)は寒い海に生息し、大きな群れを作って回遊しながら一生を過ごす魚だ。多い時には一つの群れに30億匹以上がいる場合もあると言われている。

ニシンは春先の産卵期には海岸近くにやってきて、一帯の海を埋め尽くすこともある。北海道では海岸にやって来たニシンの大群が産卵・放精することで海がミルクを流したように白く濁ることがあり、この様子を「群来(くき)」と呼んでいる。

唐太の 天ぞ垂れたり 鰊群来(山口誓子)

このようにニシンは大群を作って行動することから、群れを見つけることができれば大量に捕まえることができるのである。

中世盛期以降にキリスト教がヨーロッパ全域に広まると、多くの人が断食を行うようになった。もともとは断食日には肉や魚を食べてはいけなかったが、やがて魚を食べても良い日となり、さらに積極的に魚を食べる日へと変化して行った。特に、2月から3月にかけて始まる46日間の四旬節(しじゅんせつ)の断食期間には人々は大量の魚を食べたのである。

このような魚の需要を満たしたのがニシンであり、のちほど話題に挙げるタラだった。

ところで、ニシンは油が多い魚で、すぐに酸化して悪くなってしまう。言い伝えによると、1350年頃にオランダのヴィレム・ブッケルゾーンがニシンを樽詰めにする方法を発見したとされる。これは、ニシンを釣ったらすぐに内臓を取り除き塩水につけ、干さないでそのまま樽に詰めて保存するというものだ。こうすることで1年以上の保存が可能となった。

しかし、ヨーロッパの人々の大量の需要にこたえるためには、大規模な加工処理と輸送手段が必要だった。これを担ったのが「ハンザ同盟」である。

ハンザ同盟とはバルト海沿岸や北ドイツの商業都市による同盟のことで、この同盟の中心となるリューベックとハンブルグが1241年に結んだ商業同盟が始まりとされている。この商業同盟に他の商業都市が加わることでハンザ同盟は拡大してゆき、14世紀の全盛期には加盟都市が200を越えるまでになる。ただし、同盟と言っても強固なものではなく、困った時にお互いに助け合うといったゆるいつながりだったらしい。



リューベックはニシンの樽詰めを作るには絶好の位置にあった。すぐ近くのバルト海にニシンの大群が押し寄せて来るし、加工に必要な塩を産出するリューネブルクという町がすぐ近くにあったのだ(と言っても80km離れている)。リューベックはリューネブルクからバルト海方面に輸出される塩を独占し、一帯のニシンの加工と交易を掌握した。ちなみに、ニシン漁をしたのはデンマークの漁師であり、リューベックのドイツ人はそれを受け取って加工と輸送を行ったのである。

やがて他のハンザ同盟の海岸都市もリューベックにならってニシンの樽詰め作りに精を出すようになる。こうしてハンザ同盟はニシンの交易を独占するようになったのだ。

ハンザ同盟はニシン以外にも多くの物品の交易を行ったが、穀物や蜂蜜、塩、ワイン、木材、毛皮などの生活必需品が多かった。前回お話ししたドイツ東方地域で生産された穀物の交易を独占していたのもハンザ同盟で、13世紀後半からイングランドやノルウェーなどの冷涼な地域では、このドイツ東方地域の穀物が無くてはならないものになった。

生活必需品は価格の低さの割にかさばるものだ。このため、儲けを増やすためには大量の物品を運ぶ必要がある。ハンザ同盟の交易で活躍したのがコグ船と呼ばれる船で、この船の中間部分の船底は平らになっていて、荷物をたくさん積むことができる。また、マストが1本で帆が1枚しか無いため少人数で操船が可能だった。

14世紀になるとハンザ同盟の商人たちはドイツから離れたスカンジディナビア半島のスウェーデンに移住してニシンの大量確保を行った。この移住によってストックホルムなどの都市が発展したと言われている。

ちなみに、「世界一臭い食べ物」と言われる塩漬けニシンの缶詰「シュールストレミング (surströmming)」はスウェーデンのものだ。この塩漬けニシンは、塩が高価だったため少なめの塩を使って作られた。その結果、発酵が止まらず異臭を発生するようになるのだ。

さて、理由は不明だが、ニシンは時折回遊ルートを大きく変えることがある。9世紀頃に活発になるヴァイキングの襲来は、ちょうどその頃にニシンの回遊ルートが変わって漁獲量が落ちたからだという説がある。

1420年頃になると、それまでハンザ同盟がニシンを得ていたバルト海でニシンの産卵が減少し始めるのである。そして16世紀になるとニシンの群れは完全に北海に移動してしまった。北海はオランダの目の先で、歓喜したオランダ人はニシンを獲りまくるようになる。

バルト海では沿岸部にやって来たニシンを捕まえて浜で加工を行っていたが、オランダ人は沖でニシンを捕まえて船の上で樽詰めの加工を行った。そのために平らなデッキのついた船を使ったと言われている。

このように獲れたニシンを新鮮なままで素早く加工すると、高品質の樽詰めニシンができる。さらにオランダでは政府主導で樽詰めニシンの徹底した品質管理が行われたため、諸外国に比べて圧倒的に高品質の商品を生産できるようになった。

このオランダのニシン産業の興隆がハンザ同盟の衰退の一因になったとされている。

多様化する農業-中世後期のヨーロッパの食(2)

2020-12-22 23:13:14 | 第三章 中世の食の革命
多様化する農業-中世後期のヨーロッパの食(2)
前回は14世紀に起きた食料不足や百年戦争、ペストの大流行によって多くの人々が亡くなったというお話をしました。そして、このように人口が急激に減少した後は、食料不足も解消され、足りなくなっていた農地も残った人口を養うには十分なものになりました。

今回は、このような悲惨な時代が過ぎ去った後の農業のお話です。

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中世後期はそれぞれの地域に合った市場価値の高い農作物が作られるようになって、農業が多様化して行った時期だ。また、以前よりも牧畜が盛んになった。これは人口が減り食料が余ってきたために穀物価格が下がったことが原因だ。穀物より儲かる作物を作るようになったということである。

中世盛期では耕地を三つに分け、春耕地(春に蒔いて秋に収穫)・秋耕地(秋に蒔いて春に収穫)・休耕地を年ごとに替えていく三圃制で農業が行われており、主にムギが栽培されていた。それが中世後期になると、春耕地でムギ以外の作物を育てることが多くなったのだ。

実は、春にムギを蒔くと気温が高いため早く育ってしまって実が小さくなり、単位面積当たりの収穫量が少なくなってしまうのだ。このため、春蒔きの商品価値の高い作物が植えられるようになったのである。ちなみに、現代でも世界のコムギの大部分が冬に蒔く冬小麦として栽培されている。

こうして春蒔きのムギに代わって育てられるようになったのが、マメ類やキャベツなどの野菜類、そして布を作るための亜麻などだ。また、クローバーやカブなどの家畜の飼料となる作物の栽培も盛んになった。

さらに、三圃制での休耕地が三年に一度から数年に一度と頻度が下がったり、休耕地を完全になくしてコムギと他の作物を交互に栽培する輪作も行われたりするようになった。

一方、都市の周りでは、都市で高く売れるセロリやアスパラガス、ホウレンソウなどの野菜などの作物を重点的に作るようになった。

さらに中世後期の農業の大きな特徴として、ヨーロッパのそれぞれの地域が特定の作物を大規模に栽培するようになったことがあげられる。例えば、ブドウはフランスのブルゴーニュ地方とロワール地方、そしてドイツのライン川流域が一大産地に成長した。また、ドイツ東部はコムギやライムギを大量に生産し、西ヨーロッパ各地へと輸出するようになる。

このほかにも、オリーブやサフラン、オレンジなどが地中海沿岸でよく栽培された。そして、布を作る亜麻はオランダ・ベルギー・フランスにまたがるフランドル地方(フランダース地方)の主要な産物となった。

なお、亜麻から作られる繊維は英語で「リネン(linen)」と呼ばれ、中東やヨーロッパでは古代から使われているものだ。古代エジプトではミイラを巻く布として使用された。ヨーロッパではリネンはありふれた布であったため、日本のホテルで使用するシーツやタオルなどをいつしかリネンと呼ぶようになったと言われている。

話を戻して、次に牧畜について見てみよう。

14世紀頃になると人々の嗜好が変化して、現代人のように料理に使う油としてはバターが好まれるようになった。その結果、北欧やフランス北部ではウシの飼育が拡大する(それまではヒツジやブタの飼育が一般的だった)。

また、イングランドやスペインでは毛織物産業が急速に発展していたため、大量のヒツジが飼育されるようになった。イングランドでは四方を石垣で囲んだ広大な放牧地で牧羊を行った(これは「囲い込み(エンクロージャー)」と呼ばれる)。一方スペインでは、繊細な毛質の「メリノ種」が開発され、王室の所有物として大規模な飼育が行われるようになった。なお、メリノ種は紆余曲折を経て、現在は主にオーストラリアと南アフリカ共和国で飼育されている。



以上のように地域ごとに特色のある農業が中世後期に発達して行ったが、これは現代まで受け継がれていくことになる。

食料不足と戦争とペストのヨーロッパ-中世後期のヨーロッパの食(1)

2020-12-19 15:30:51 | 第三章 中世の食の革命
3・5 中世後期のヨーロッパの食
食料不足と戦争とペストのヨーロッパ-中世後期のヨーロッパの食(1)
今回からしばらく中世後期のヨーロッパにおける食を見て行きます。

ヨーロッパの中世後期とは西暦1300年頃から1500年頃までの時代を指します。中世後期には大飢饉や戦争、ペストの大流行があり、暗黒時代と呼ぶにふさわしい停滞と後退の時代でした。

今回はその概要についてお話ししましょう。

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中世後期のヨーロッパを襲った最初の危機は食料生産力の低下だ。中世盛期には農業革命によって食料生産力が著しく向上したが、14世紀になると一転してそれに陰りが見え始めたのだ。

その原因の一つが利用できない耕作地が増えたことである。

もともと地力が低い土地を無理やり開墾して耕作地にしたところでは、生産を維持することができなかったのだ。このような土地では三圃制農法を行って家畜の糞尿を施しても地力は完全には回復しなかった。人糞も肥料として使用されていたが、人が集まる都市から離れた耕作地では手に入れるのが難しかった。

こうして十分な収穫が望めなくなって放棄される農地が増えて行ったのである。農地は村単位で耕作されていたため、14世紀以降には廃村となる集落が続出したという。

収穫量の減少には気候の寒冷化も関係している。長らく続いていた温暖な気候が終わりをつげたのだ。この寒冷化は19世紀初めまで長期間にわたって続いた。この期間は「小氷期」と呼ばれていて、その原因は太陽活動の低下によるものと考えられている。

以上のように耕作地の減少と寒冷化で食料生産力が低下した結果、ヨーロッパでは飢饉がたびたび起こるようになった。中でも1315~1317年にかけてヨーロッパ全域にわたって発生した大飢饉は悲惨なものだった。

1315年の春からヨーロッパはたびたび大雨に見舞われることになった。平年並みの気候に戻ったのが2年後の1317年の夏頃と言われている。この間気温は低いままだった。その結果、穀物が十分に実らなかったという。また、家畜の飼料となるワラもとれなくなり、乳製品や肉も減少した。さらに、雨のために塩田での塩づくりも困難になり、塩漬けの保存食も作れなくなった。

こうして深刻な食糧不足が始まった。食料の備蓄があったのは王侯貴族や聖職者、裕福な商人だけで、多くの庶民はまともに食べることができなくなった。その結果、多くの都市で10~25%の人が死亡したと推測されている。死亡の原因は餓死だけでなく、栄養不足による免疫力の低下のために肺炎などの病気にかかりやすくなったからだと考えられている。

このような状況では都市が衰退するのも当然で、経済も悪化した。
ここで、さらなる災厄が西ヨーロッパを襲った。それが英仏間の百年戦争(1337~1453年)である。停戦を繰り返しながらも100年以上にわたって戦争状態が続いたわけである。

戦争の直接の原因はフランスの王位継承問題だった。

フランス王のシャルル4世(在位:1322~1328年)が1328年に亡くなった時には存命の男子がいなかった。そこで、フランスの諸侯会議は従兄のフィリップ(フィリップ6世(在位:1328~1350年))を次のフランス王に選んだ。当時のヨーロッパでは諸侯が王を「選ぶ」のが通例だったのである。

一方、イングランド王のエドワード3世(在位:1327~1377年)もシャルル4世の従弟で王位継承権を持っていた。また、彼はフランスの諸侯の一人(ギュイエンヌ公)でもあった。エドワードはフィリップ6世の即位を一旦は認めたが、両者の間で所領などに関する様々な問題が生じた結果、1337年にフランスの王位を主張して大軍を率いてフランスにやって来た。こうして百年戦争が始まったのである。

長い戦争のため様々な出来事が起こったが(例えば、ジャンヌ・ダルクの活躍など)、詳細は割愛させていただく。最終的にはイングランド軍がフランスから撤退し、フランスの国土はフランス王の下に統治されることとなった。また、イングランド王もフランス王の家臣という立場から脱することとなった。


ジャンヌ・ダルクの像(パリのピラミッド広場)

こうしてそれぞれの国で統一感が生まれるようになり、さらにその意識がドイツなどの他国にも伝染することによって、ヨーロッパに「国家」という意識が芽生え始めたとされている。

しかし、一般庶民には良いことは何もなかった。農地や都市が戦場になったり、傭兵などのあぶれた兵士が都市や街道で略奪行為を繰り返したりなど、庶民生活を破壊する行為が相次いだのである。

さらに悪い時には悪いことが続く。14世紀の半ば頃からヨーロッパでペストが大流行したのだ。ヨーロッパでの流行は黒海沿岸が最初で、地中海を経て西ヨーロッパへと広がって行った。

ところで、ペストは「腺ペスト」と「肺ペスト」に大きく分類できる。腺ペストは、ペスト菌を持ったノミに血を吸われたり、ペスト菌が付着した動物や死体に触れたりして感染するもので、リンパ節でペスト菌が増殖する形態だ。腺ペストは基本的に接触感染なので、感染力はそれほど高くない。

一方、問題なのが肺ペストだ。肺ペストはペスト菌が肺に感染して増殖することで発症する。患者はペスト菌を含んだ飛沫を周囲にまき散らすようになり、感染が急激に広がるようになるのだ。

アルプスより北方にペストが侵入すると、この肺ペストの患者が増えることによってまたたく間に感染者が増えて行ったのだ。その結果、食料不足や戦争で犠牲になったよりもずっと多くの人命が失われた。一説によると、14世紀の流行ではフランスで3分の1、イギリスで5分の1の人口が失われたという。ヨーロッパにおけるペストの流行は15世紀前半まで続いた。



以上のように食料不足・戦争・ペストによって多くの人命が失われたが、生き残った人たちには好都合な面もあった。まず、人口減少によって食料不足が改善された。次に、人手不足によって農民や手工業者の待遇が良くなったのだ。

一方で、農民や手工業者などの一次生産者から搾取を行っていた領主は、取り分が減って窮乏するようになる。こうした領主たちは王を頼るしかなかった。その結果、封建領主が支えていた封建社会が、王を中心とした中央集権社会へと変化して行ったのである。

このように、ヨーロッパの中世後期は大きな災厄が相次いだ結果、社会や個人の在り方が大きく変化した時代でもあったのだ。

なお、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を再発見するなど、15世紀末から大航海時代が始まるが、これについては別の節で見ることにする。


12世紀ルネサンスと大学の始まり

2020-12-14 23:44:36 | 第三章 中世の食の革命
12世紀ルネサンスと大学の始まり-中世盛期のヨーロッパと食(11)
今回で中世盛期のヨーロッパの話は終わります。次に続く中世後期では大飢饉やペストの大流行、そして英仏間の百年戦争(1337~1453年)などが起こり、暗黒時代と呼ぶにふさわしい様相を呈します。

今回は中世盛期のまとめとともに、12世紀ルネサンスについて見て行こうと思います。

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中世前期(西暦500~1000年)にはゲルマン民族の大移動による社会の混乱や、イスラム勢力の侵攻、ヨーロッパ沿岸部へのヴァイキングの移住、マジャール人のパンノニアへの移動など、たくさんの危機がヨーロッパに訪れた。しかし、西暦1000年頃までに異民族の撃退や同化に成功するとともに、1000年頃から始まる「中世の農業革命」と700年代から続いている気候の温暖化によって農業生産性が向上した結果、農村や都市が発展し、ヨーロッパは「中世盛期(西暦1000~1300年)」の名にふさわしい発展の時期を迎えることになった。

中世農業革命は、鉄の農機具の利用と「三圃制(三圃式)」耕作法が広がった結果始まったものだ。また、鉄の農機具を用いて森林を開墾し、新しい農地を次々に生み出していったことも農業革命の要因となっている。13世紀の耕作地の面積は11世紀の2倍以上になったと見積もられている。

三圃制では耕地を三つに分け、春耕地(春に蒔いて秋に収穫)・秋耕地(秋に蒔いて春に収穫)・休耕地を年ごとに替えていく。休耕地では家畜を放牧して糞尿が肥料となることから地力の低下を防ぐことができるのだ。

鉄の農機具を使った三圃制の農地では、重い農機具をウマやウシに引かせるため方向転換が難しくなった。そこで、それまで家族単位で耕作していた農地が村単位でまとめられて、長方形の大きな農地に整えられた。また、農民の住居も一か所に集められた。そして修道院や騎士などの領主は、集落近くに製粉所やパン焼きかまど、醸造所などの共通施設を設置して行った。こうして現代に受け継がれているヨーロッパの農村風景が形成され始めたのである。

農業革命によって食料生産性が向上した結果、人口が増加するとともに余剰分が市場に出回るようになる。すると、一獲千金をねらって冒険商人として商いを始める人々が登場した。彼らは、教会や修道院、騎士の城砦近くに拠点となる集落を作った。すると、このような拠点に多くの商人や手工業者が集まるようになる。

やがて商人たちは領主を買収したり、戦ったりすることで自治権を獲得して行くとともに、街全体を城壁で囲むようになった。また、国王や大貴族、有力な司教たちは経済的な見返りの代わりに自治権を保証するようになった。こうして商人たちによって多数の中世都市が作られて行った。

さて、中世都市で忘れてはならないのが、現代の大学につながる学問の府が誕生したことである。

中世のヨーロッパではローマ帝国で公用語だったラテン語が引き続き書き言葉として使用されていたが、話し言葉はそれとは少し違ったロマンス語などの言語だった。このような書き言葉と話し言葉の不一致のため、文字を書けるのは聖職者などごく一部の人たちだった。

中世盛期に建設された都市に新しい教会や修道院が建てられるようになると、聖職者の養成が急務となる。また、都市を統治するために法律家などの知識人も必要だった。こうした人材を養成するために教会に付属した神学校や法学校が12世紀頃から盛んに建てられるようになった。これが、のちの大学の前身となった。

さらに、古代ギリシアの学問を再び学びなおそうという機運が高まったことも学びの場を発展させる要因となった。

「イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)」でもお話ししたが、古代ギリシアの学問はイスラム世界に受け継がれていた。12世紀なって地中海貿易の発展や十字軍遠征によってイスラム世界との交流が盛んになった結果、ヨーロッパ人が古代ギリシアやイスラムの学問を知ることになったのだ。

ローマ帝国が滅んでからはヨーロッパの学問のレベルはかなり下がっていたため、ヨーロッパの知識人は進んだ学問に熱狂するようになる。彼らは、イスラムから奪還したイベリア半島の都市トレドやシチリア島のパレルモに押しかけて、アラブ語やギリシア語で書かれた書物をかたっぱしからラテン語に翻訳して持ち帰った。そして、この新しい学問も教会付属の神学校や法学校で教えるようになったのだ。

神学校では、ギリシア哲学によってキリスト教の教えの理論化と体系化が行われた。教会付属の学校は「スコラ(schola)」と呼ばれていたことから、このような学問を「スコラ学」と言う。なお、スコラ(schola)は学校(school)の語源とされている。

食の世界における大きな出来事としては、「四体液説」と呼ばれる医学理論が導入されたことがあげられる。

四体液説とは、人間の体液は「血液、粘液、胆汁、黒胆汁」の4つの元素から構成されていて、血液は「熱」と「湿」の性質を持ち、粘液は「湿」と「冷」、胆汁は「熱」と「乾」、黒胆汁は「冷」と「乾」の性質を持つとする考えだ。そして、これらのバランスが崩れると病気になるとされた。この説は、ローマ帝国の医学者ガレノス(129年頃~199年)が、ヒポクラテスの説を基にして作り上げたものである。


    四体液説の概念図

食べ物も4元素(風・水・火・土)からできていて、「熱」「湿」「冷」「乾」の4つの性質のうち2つを持つとされた。例えば、植物は「土」に生えるので「冷」と「乾」の性質を持ち、食べ過ぎると体の「冷」と「乾」の性質が強くなってしまうというわけである。また、魚介類は「水」で、「湿」と「冷」の性質を持つとされた。

さらに、体の中に特定の元素が多くなった場合に起きる病気についても詳細に論じられた。例えば、黒胆汁が増えると、その蒸気が脳へ上って理性を混乱させ、ありもしない想像を生み出すとされたそうだ。

くずれたバランスを戻すための食事は重要で、「冷」が過剰な場合は「熱」の性質を持つ食品を多く摂り、「湿」が過剰な場合は「乾」の性質を持つ食品を多く摂るようにした。このように四体液説が広まった結果、食事によって病気や体調不良を治そうとするようになったのである。

現代の知識から言うと明らかに間違った理論であるが、科学的根拠が無いことが実証されるのは19世紀になってからであり、少なくとも17世紀までは四体液説が広く信じられていたのだ。

以上のように、12世紀になってギリシアの学問が再導入された結果、文化の変革が起きたことを「12世紀のルネサンス」と呼んでいる。