食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

茶の湯の誕生-中世日本の食(4)

2021-01-09 22:58:01 | 第三章 中世の食の革命
茶の湯の誕生-中世日本の食(4)
ノンアルコールの飲み物として、緑茶や紅茶などの「茶」と「コーヒー」は世界中で広く飲まれています。この2つに共通することが「カフェイン」と「ポリフェノール類」を多く含むことです。

カフェインは中枢神経系に作用して、眠気を覚ましたり、集中力を高めたりする効果を発揮します。また、胃酸分泌の促進や利尿など、体の調子を整える働きもします。最近ではカフェインを日常的に摂取していると、認知症予防につながることが複数の研究から示唆されています。

また、ポリフェノール類は強い抗酸化作用を示し、血管や組織を傷つける物質を無毒化します。ポリフェノール類にも、肥満や2型糖尿病、心疾患、脳卒中、がん、認知症などの予防・改善効果があることが、さまざまな研究で示唆されています。

このようにカフェインやポリフェノール類は人間にとって有用な物質ですが、昔の人々は茶やコーヒーを飲んだら体の調子が良くなることに気が付いて、日常的に飲むようになったのではないかと思われます。

学校の日本史の授業では、千利休が「茶の湯」を完成させたことを必ず習います。今回は利休によって茶の湯が完成するまでの話を見て行きます。

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現代の日本における茶の飲み方としては主に次の2通りがある。

①抹茶:粉末にした茶葉に湯を注ぎ、茶せんで混ぜたものを飲む
②煎茶:茶葉に湯を注ぎ、出てきた汁を飲む

この2つの飲み方はどちらも中国から伝わったものだが、日本で②の「煎茶(せんちゃ)」と呼ばれるものは、中国では「淹茶(えんちゃ)」という飲み方だ。中国の「煎茶」は茶葉を煎じて(煮出して)飲むものなので注意が必要だ。

実は中国での最初の茶の飲み方は中国式の煎茶だった。遣唐使たちによって日本に伝えられた飲み方もこの方法だった。

中国では宋代(960~1279年)になると、粉末にした茶葉を茶碗に入れて湯を注ぎ、かき混ぜて飲むという日本の抹茶の形式で茶を飲むようになった。これが、日本に伝えられて茶の湯の世界が作られて行く。



さらに中国では明代(1368~1644年)になると抹茶のような飲み方は廃れて、中国式の淹茶(現代日本の煎茶)の飲み方が広まった。これも日本に伝えられて、日本式の煎茶として現代に続く飲み方となったのである。

さて、「茶と唐菓子の伝来-古代日本(7)」でもお話ししたが、遅くとも平安初期に日本に伝えられた茶は、天皇や貴族、僧侶などによって飲まれた。そして茶の栽培は寺院を中心に続けられていたと考えられている。これは、茶の覚醒効果や集中力を高める効果が、仏教の修行に役立ったからだと考えられる。中国の禅宗では茶に関する多くの規則があると言われているが、茶には座禅を行うための眠気覚ましの効果があるからだと言われている。

日本の記録の中で抹茶が最初に現れるのが臨済宗開祖の栄西(ようさい)(1141~1215年)が著した『喫茶養生記』だ。栄西は二日酔いの将軍源実朝に一杯の茶を奉ったと言われており、『喫茶養生記』では茶の薬効や茶木の栽培、喫茶の方法などが総合的に解説されている。このように武家と密接な関係を築いた禅僧によって武士層にも茶の習慣が広まって行った。

鎌倉時代には中国禅宗の中心であった浙江の天目山の寺院に日本から多くの僧が留学した。これらの寺院では天目山の粘土で作った茶碗で茶が飲まれていたが、留学僧がこの茶碗を日本に持ち帰って「天目茶碗」と呼んだ。こうして天目茶碗は茶を飲むのに最適な茶碗として日本で珍重されるようになる。

鎌倉時代から室町時代にかけては「闘茶」と呼ばれる賭け事が京都で大流行する。闘茶の詳細についてはよく分かっていないが、いくつかの種類の茶を飲んで産地の違いなどを言い当て、商品を獲得する遊びと考えられている。このことからも、その当時には多数の茶の産地があり、茶を飲むのも珍しいことではなくなっていたことが分かる。

実際に室町時代には、寺社の門前で茶を売る茶屋や、茶道具一式を天秤棒で担いで茶を売り歩く「担ひ茶屋(にないぢゃや)」が登場し、一般庶民も茶を楽しむようになっていた。

15世紀頃には若い女性が茶をたてる茶屋が現れ、中には店の中で良からぬことをするところもあったそうで、取り締まりも行われるようになったそうだ。そして、時代が進むにつれて「茶屋」は「遊郭」という意味も持つようになって行く。

室町時代の終わり頃になると茶を飲む新しい様式が現れた。それが「茶の湯」である。

茶の湯の定義はなかなか難しいが、釜などの茶道具が置かれた座敷内で、目の前でたてられたお茶を集まった人たちが飲むことと言えば大きな間違いはなさそうだ。

茶の湯の開祖とされるのは浄土宗の僧侶だった珠光(じゅこう)(1422年頃~1502年)だ。彼は戦乱の俗世を離れて奈良の草庵で暮らす遁世の生活を行っており、訪れた人に茶をたててもてなしたと言われている。

16世紀になると京都や奈良、堺などで盛んに茶の湯が行われるようになる。奈良は応仁の乱などから逃げてきた公家などの避難先となって栄えていた。一方、堺は遣明船の発着地となっており、商人の町として栄えるとともに禅宗などの寺院が次々と建てられていた。これらの人々が中心となって茶の湯が行われていたのである。

1569年に織田信長は町人の自治都市だった堺を支配するようになった。そして、堺の有力商人の今井宗久、津田宗及、千宗易は信長に仕えるようになる。やがて信長が倒れ秀吉が後継者になると、千宗易(1522~1591年)が秀吉配下の筆頭の茶人となるとともに政治にも関与するようになった。

千宗易はそれほど大きくない商家に生まれ、19歳の時に父を亡くして跡を継いだ。若いころはそれほど金持ちではなかったので、質素なわび茶を主に行っていた。この経験がわび茶を中心とした茶の湯の世界を完成させることになったと考えられる。

「利休」の名は晩年の数年間だけ使われた。1585年に天皇の前で茶をたてることになった時に無位無官の商人では参内することはできなかったので「利休」と言う僧になったのである。その後、利休はなぜか秀吉の怒りをかって切腹を命じられ、1591年に70年あまりの人生を終えることになる。

千利休が完成させたとされる茶の湯の特徴は、草庵茶室と呼ばれる三畳や二畳という狭くて質素な茶室で、地味な色調を持ちながらも端正な形状の茶道具を用いて茶をたてるという点にあると言われている。彼は、こうした茶室と茶道具に人々の所作が一体化した「一期一会」のひと時を創出しようとしたのだろう。利休が大成した茶の湯の様式は彼の弟子たちを介してその後の茶の湯の世界に大きな影響を与えた。