食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

トスカーナ料理とフランス料理-ルネサンスと食の革命(2)

2021-05-22 19:07:30 | 第四章 近世の食の革命
トスカーナ料理とフランス料理-ルネサンスと食の革命(2)
ルネサンス期にフィレンツェは芸術や文化の中心となりましたが、食の世界でも当時の最先端の地でした。

フィレンツェを含む一帯の地域は古代ローマ時代から「トスカーナ」と呼ばれ、ここで発展したのが「トスカーナ料理」です。そして、このトスカーナ料理がフランスに伝えられることで「フランス料理」の原型が作られます。

例えば、日本で「オニオングラタンスープ」の名で有名な「スーパ・ロワニョン・グラティネ(soupe à l’oignon gratiné)」は、トスカーナのカラバッチャ(carabaccia)という料理が原型と言われています。


スーパ・ロワニョン・グラティネ(Image par RitaE de Pixabay)


カラバッチャ

今回はトスカーナ料理について見たあと、それがフランスにどのように伝えられたかを見て行きます。

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トスカーナはイタリア半島の北寄りの中西部に位置する。

トスカーナにはフィレンツェ以外に、ヴェネツィアやジェノヴァと肩を並べる湾港都市のピサが栄えていたが、ジェノヴァとの戦いに敗れたのちは衰退し、15世紀初めにはフィレンツェ共和国に征服された。こうしてフィレンツェ共和国はトスカーナの大部分を支配することとなった。



トスカーナの内陸部は大部分が丘陵地帯で、夏は暑く冬は非常に寒い。一方、海岸部は温暖で雨が少ない地中海性気候となっている。このように変化に富んだ気候のため、ここではたくさんの種類の作物を手に入れることができ、トスカーナは食材の宝庫と言われてきた。

トスカーナの農作物として重要なものがマメ類だ。「豆食いのトスカーナ人」と言われるほどインゲンマメやレンズマメなどの豆類をよく食べる。また、カーヴォロ・ネーロという黒キャベツが冬野菜の定番となっている。そのほかには、地中海気候で良く育つオリーブやタマネギ、キュウリ、レタスなどが良く栽培されてきた。 

家畜としては、現代でもイタリアのブランド牛として有名な「キアニーナ牛」という白牛が筆頭にあげられる。このウシの名はトスカーナのキアーナ渓谷に由来し、イタリアでもっとも古いウシと言われている。赤身が美味しい牛肉で、フィレンツェの名物料理「ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(Bistecca alla Fiorentina)」(フィレンツェ風Tボーンステーキ)に使用される。

それ以外にはヒツジもたくさん飼育され、仔羊の肉が料理によく使用された。また、ヒツジの乳を原料としたチーズ「ペコリーノ・トスカーナ」はトスカーナ料理には欠かせないものになっている。

チーズと来れば次はワインだが、トスカーナはワインの産地としても有名だ。イタリアワインでもっとも有名な「キャンティ」はトスカーナの内陸部のキャンティ地方で造られる赤ワインだ。その歴史は14世紀までさかのぼり、ルネサンス期に品質が大きく向上したと言われている。それ以外にも「モンタルチーノ」などの有名ワインがトスカーナで造られてきた。

キャンティの特長の一つが原料のブドウに「サンジョヴェーゼ種」を主に使用していることだ。このブドウは栽培が難しく、土地ごとに風味が異なると言われている。この風味の違いを守るために、メディチ家の当主コジモ3世(1642~1723年)は、キャンティなどの著名なワイン生産地の境界を定めることで原産地保護を行った最初の人として知られている。

以上のようにトスカーナでは豊富な食材が手に入るため、新しい料理を試してみるのに最適な場所だった。

元々のトスカーナの料理は貧しい農民の料理で、硬くなった古いパンを食べやすいようにスープに入れたり、サラダに入れたりしたものが多かった。冒頭のカラバッチャもタマネギスープにパンを浸したものだ。また、「パンツァネッラ」は水に浸してやわらかくしたパンを入れたサラダである。

このような素朴な料理にメディチ家が新しい食文化を導入することでトスカーナ料理が発展したと考えられている。

メディチ家は大富豪だったが、見かけの豪華さにはこだわらずに料理の品質を追い求めたと言われている。そのために良い食材をそろえ、それぞれの持ち味を生かした素朴で健康的な料理を作り出して行った。例えば、高品質の香り高いオリーブオイルで肉や野菜をソテーしたものなどを好んだそうだ。ただし、砂糖を使った菓子類には目が無かったようで、砂糖漬けの果物をよく食べていたと伝えられている。

メディチ家は「優雅に」食べるためにテーブルマナーを洗練させたことでも知られている。

中世までのヨーロッパには個人用の皿は無く、大皿の料理をめいめいが手でつかんで食べていた。ナイフは使用されていたが、大皿の肉料理などを切り分けるのに使用されていただけだ。また、フォークは11世紀の初め頃にビザンツ帝国からヴェネツィアに伝えられたが、金属製で高価であったため一般的には普及していなかった。さらにイタリアには東方世界から磁器製の皿なども伝えられていた。

メディチ家は最先端のイタリアの地にあって、食事の参加者それぞれが個人用の皿に料理を取り分けて、ナイフとフォークを使って食べるという、スマートで衛生的な食事作法を確立させた。メディチ家の遺産目録には多数のフォークの記載があり、これらが日常的に使用されていたと考えられている。また、7代目のフランチェスコ1世(1541~1587年)は自ら陶磁器の製作に取り組み、「メディチ磁器」と呼ばれたものを完成させている。

1533年にメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシス(イタリア語: カテリーナ・デ・メディチ、1519~1589年)はフランス王アンリ2世(在位:1547~1559年)と結婚する。ちなみに、アンリ2世は馬上槍試合で頭部を負傷し死亡してしまうが、この出来事をノストラダムスが予言していたという話が残されている。

美食家であったカトリーヌは、婚姻の際に大勢の料理人をフィレンチェから連れて行ったと言われている。この時カトリーヌに付き添ってきた料理長がフランス宮廷のテーブルマナーの野蛮さに驚き、『食事作法の50則』というテーブルマナーの専門書を書いたとされる。

こうしてフランス宮廷ではメディチ家のようにナイフとフォークを使って料理を食べるようになった。ところがルイ14世(在位1643〜1715年)の時代までには、手づかみで食べる習慣に戻ったようである。そして再びフォークを使って食べるようになるのは17世紀になってからと言われている。

カトリーヌはさらに、トスカーナの食材やオニオングラタンスープなどの料理、シャーベットやアイスクリーム、マカロン、シュークリームといった菓子類をフランスに伝えたとされている。

実際にこの頃にイタリアからフランスに様々な料理や菓子類が伝えられたと考えられているが、言い伝えのようにカトリーヌ自身が関わっていたかどうかについては確証がないそうだ。どうも、とりあえずカトリーヌの名前を出しておけばそれらしいお話ができると思われたようである。


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