懐石の誕生-中世日本の食(6)
今回は「懐石(料理)」の話です。(料理)とカッコ付きにしたのは、本来は「懐石」と「懐石料理」は違うものとされているからです。また、これら以外にも、「茶懐石」や「京懐石」などがありますが、これらの違いは何でしょうか。
まず「懐石」は、茶会で茶を飲む前に食べる料理のことです。懐石という言葉は、修行僧が寒さと空腹を紛らわすために温めた石(温石)を懐に抱いてお腹を温めたことから来ており、質素な料理を指します。
次に「懐石料理」ですが、これは茶会から独立して単独で食べられるようになった料理のことを言います。もとの懐石では、ご飯と汁物が最初に出て酒は少ししか出ませんが、懐石料理になると最初から酒が出て、ご飯ものは最後になります。つまり懐石料理は宴会料理とも言えます。ただし、懐石も懐石料理も一汁三菜もしくは一汁二菜を基本としています。
「茶懐石」も懐石料理と同じように茶会から独立した料理ですが、もとの懐石のように最初にご飯と汁物が出る場合にこう呼ばれることがあるようです。また、茶会で出す懐石を茶懐石と呼ぶことで、懐石料理とは違うことを示すこともあるようです。
最後の「京懐石」は京都で発達した精進料理を懐石料理に持ち込んだもので、「懐石風精進料理」と言えます。
しかし、以上のような分け方は厳密なものではなく、それぞれがかなり混同して使われたり、懐石からほど遠い料理を懐石と言ったりしている場合もあります。
とにかく、懐石という言葉は現代では「上品な和食」を表す重要なキーワードになっているため、この言葉がよく使われているのだと思います。
少し前振りが長くなりましたが、これから懐石が生まれてきた歴史を見ていきましょう。
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前々回の「茶の湯の誕生」でお話ししたように、16世紀になると京都や奈良、堺などで盛んに茶会が行われるようになった。このような茶会では食事を出すのが原則となっていた。と言うのも、空腹時に濃い茶を飲むと胃に悪いからである。
茶会は上流階級の人たちで催されていたため、そこで出される料理も本膳料理かそれに近い豪華なものが多かった。本膳料理は以前の大饗の料理よりも美味しくはなっていたが、見た目の豪華さの方が重要視されるあまり、美味しさがなおざりにされることもよくあった。
そして、このような豪華さは質素さを基本とする「わび茶」の精神とは相いれないものであった。このような矛盾を解消するために千利休(1522~1591年)が生み出したのが、質素な「懐石」だったのである。
ただし「懐石」という言葉を利休自身が使ったことはないらしく、茶会の料理を表す言葉として一般的に使用されるのは明治になってからと言われている。それまでは、集会を表す「会席」や食事を表す「献立」という言葉などが使用され、特別な名称をつけるということはなかったようだ。
茶会での料理に対する利休の思いを伝える逸話としては次のようなものがある。
利休が開く茶会に招かれていた客が、その前日にお礼をするために利休の家に訪れたところ、利休は金銀で飾った豪華な本膳料理を出して彼らを喜ばせた。その本膳料理は利休が茶会のために用意していたものだったのだが、あえて前日にふるまうとともに、当日の茶会では粗末な汁物だけを出したという。利休はこのようにして、茶会での贅沢を否定するという姿勢を皆に示したとされている。
つまり、利休が目指したのはわび茶風の料理であって、普通の宴会のように酒を飲んで大騒ぎするようなものではなく、静かに語らいながら食事と酒、そして茶を楽しむのである。こうして16世紀末頃になると、本膳料理などと茶の湯の料理とを区別しようとする意識が高まって行ったのである。
さて、昔の日本の様子を知る上でその当時日本に滞在していた外国人の記録はとても役に立つ。信長や秀吉の時代にはポルトガルから多数の宣教師が日本に来ていたが、その中にジョアン・ロドリゲス(1561~1633年)という人物がいた。彼は10代の頃に単身で来日し、日本でポルトガル人から教育を受けて司祭となった変わり者だ。彼は非常に日本語に長けていて、秀吉(1537~1598年)とも親しく接したことがあるとされている。
ロドリゲスは日本に関する書物をいくつか書いているが、その中に日本の文化風俗や宗教史を紹介した『日本教会史』という書物がある。その本に当時の上流階級で出されていた料理について述べている箇所がある。そこでは本膳料理の説明の後に、「温かくて十分に調理された料理が適当なタイミングで客の前に運ばれる」料理があるとしていて、これが利休の始めた茶会の料理と考えられている。
当時の本膳料理では目の前にお膳がずらっと並べられており、その中には見るためだけに作られて冷たくなって食べられない料理もあった。一方の茶会の料理は一汁二菜、あるいは三菜という簡素な料理であったが、丁寧に調理されたものが温かいうちに順番に運ばれて来るようになっていたのだ。このように茶会では、質素ではあるが、手間をかけた凝った料理が出されていたのである。
応仁の乱やそれに続く戦乱によって世の中には虚無感や無常観が広がっていたが、そのような中で日常生活の素晴らしさをいつくしむ心が強くなって行ったと言われている。そして、季節感を盛り込むことで、穏やかな日常を楽しむことができる料理が好まれるようになったのである。
このように季節感を大切にして、さまざまな趣向を料理に取り入れようとする姿勢は、それ以降の日本料理に受け継がれていくことになる。このように、「懐石」が日本の料理の歴史で果たした役割はとても大きいものだったのだ。