食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ルイ13世とルイ14世-フランスの大国化と食の革命(2)

2021-07-11 00:01:13 | 第四章 近世の食の革命
ルイ13世とルイ14世-フランスの大国化と食の革命(2)
前回はアンリ4世の話をしましたが、彼は恋多き男で、生涯を通じて73人もの愛人を作ったと言われています。また、最初にアンリ4世が結婚したシャルル9世の妹のマルゴも数々の男性遍歴で知られた人でした。つまり、お互いに似たもの同士だったのです。

しかし、二人には大きな問題がありました。それは二人の間に子供ができなかったことです。フランスで王位継承権を持つのは王と妃の間に生まれた男子なので、このままでは我が子に王位を譲ることができません。そこでアンリ4世はマルゴと離婚して、新しい妃を迎えることにしたのです(ただし、カトリックでは離婚は認められていないので、ローマ教皇に頼んでマルゴとの結婚を近親婚と言う形で無効にしてもらいました)。

こうして選ばれた次の妃は、メディチ家出身のマリア・デ・メディチ(仏:マリー・ドゥ・メディシス)でした。マルゴの母親もメディチ家出身でしたので、マルゴの親戚が妃になったというわけです。

そして1601年には待望の王太子が生まれますが、この子が9歳の時にアンリ4世は亡くなってしまったのでした。

今回はこうして誕生したルイ13世とその息子であるルイ14世について見て行きます。

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アンリ4世の後を継いだのは息子のルイ13世(在位:1610~1643年)だ。彼が王に即位したのは若干9歳であったことから、母のマリー・ドゥ・メディシスが摂政となり政治を取り仕切った。彼女が行った最も重要な出来事が、ルイ13世とスペイン王女アンヌ、そしてフランス王女エリザベートとスペイン王太子フィリップ(のちのフェリペ4世)の結婚である。これによってカトリック国同士の関係が強まることとなった。

しかし、次第に母子の関係が悪くなって、お互いに争うようになり、そして最終的にルイ13世は母を排除した。母に代わって政治に参加したのが宰相のリシュリューだった。彼は辣腕をふるってユグノーの反乱などを鎮めるなどして、アンリ4世から受け継いだフランク王国を盤石なものにして行った。こうしてフランスの絶対王政の基礎が固まって行くのである。

また、ルイ13世とリシュリューは、神聖ローマ帝国内のプロテスタントの反乱から始まった三十年戦争(1618~1648年)にプロテスタントを支援する形で介入を行った。これはスペインと神聖ローマ帝国を治めるハプスブルク家の力をそぐために行われたものだ。アンリ4世にならって、ルイ13世も宗教ではなく、国益を第一に考えた政策決定が行ったのである。

ここで、ルイ13世の食に関する逸話を紹介しておこう。

ルイ13世は狩をするのが大好きで、また大食漢だった。狩で獲れた鳥獣はその場で料理してパリ産のワインとともに平らげたと言われている。また、油で漬けたトリュフが大好物だったらしい。

自ら料理を作ることもあったらしく、10歳の時に公爵夫人のためにミルクポタージュを作ってあげたという記録が残っている。10歳の王が料理を作っている姿を思い浮かべると、何とも微笑ましい気分になる。

それ以外には、オムレツが得意料理だったことや、ジャムを作ったり、揚げ物を作ったりしたことが知られている。

そんなルイ13世は1643年に結核にかかってしまい、急逝してしまう。そして、4歳8か月の息子のルイ14世(在位:1643~1715年)が即位した。なお、彼の時代にフランスの絶対王政が確立し、国内は安定した状態になる。そして、食文化を含めて、新しいフランス文化が形作られて行くのである。


       ルイ14世

ルイ14世の少年期を支えたのが宰相のマザランだ。しかし、即位後間もないルイ14世とマザランに危機が訪れる。ハプスブルク家との戦争のための増税に反発して、1648年に民衆の反乱が勃発したのだ。これは貴族まで飛び火してフランスは混乱を極める状態になった。それでもマザランはこれを何とか鎮めることに成功する。

フランスとスペインの戦いは続いていたが、長引く戦争のため双方ともに疲弊していて、お互いに終戦の機をうかがっていた。ここでマザランはルイ14世の結婚問題を持ち出す。マザランはルイ14世をスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサと婚約させることで、スペインとの戦争を終了させたのだ。こうして二人は1660年に結婚した。

1661年にマザランが死去すると、ルイ14世は自らが政治を行うと宣言したと言われている。実際には財務と軍務を優秀な官僚に任せて、自身は戦争に明け暮れた。

優秀な官僚の一人である財務担当のコルベールは、地方の税金などを王直属の官僚が徴収する制度を確立した。こうすることで貴族によるピンハネを防ぎ、王に入る金を増やしたのだ。

また、コルベールは保護貿易によって他国の船が込んで来る商品を締め出すことで、自国の海外貿易を発展させた。さらに、東インド会社や西インド会社などを設立して植民地経営を活発化させた。こうして、フランスの国力が高まるとともに、絶対王政が確立して行ったのである。

ルイ14世と言えば「ヴェルサイユ宮殿」である。ヴェルサイユには父のルイ13世紀が狩場としていた森があったが、庭園とちょっとした屋敷が建っていただけだった。ところが、そこを訪れたルイ14世がヴェルサイユを気に入ったのだ。そして、1661年からまずは庭園を整備した。さらに1668年からは宮殿の建築を開始した。1677年になると、ルイ14世ら王族はヴェルサイユ宮殿に定住すると大体的に発表し、さらなるそ拡張工事を続けた。こうして1682年からルイ14世ら王族はヴェルサイユ宮殿で生活を始めたのである。


ヴェルサイユ宮殿(Jean photosstockによるPixabayからの画像)

ヴェルサイユ宮殿でルイ14世は「王であること」を貴族たちに見せるために、毎日決まったスケジュールで生活を送った。

起床は7時半だ。近侍が起床の声をかけると医師が王の寝室に入り、ルイ14世の健康チェックと下着の着替えを行う。8時からは他の王族と神への祈りをささげる。8時半からは調髪係が髪を整え、衣装係が服を着せる。

準備が整うと謁見を許された100人ばかりの貴族がルイ14世の前を通り過ぎて行くが、この時に王が誰かに興味を示せば大変だ。その貴族は、「王が私を見てくれた」と大喜びし、これで我が一族は安泰だと安堵するのだ。

この頃には王の権力が絶対となっており、王に認めてもらえることが何よりも重要になっていた。そのために貴族は王に真似て華美な衣装や髪飾り、宝石を身に付けて白化粧をし、優美な振る舞いをして王の気を引こうとしたのだ。こうしてフランスの服飾の文化は大きく発展することになる。

料理の世界も同じだった。ルイ14世は9時過ぎからの朝食は一人でワイン2杯とブイヨン1杯を飲んだが、昼食と夕食は貴族の前で食事をした。この食事は身に付けた衣装や宝石のように、見かけはとても豪華だったらしい。特に夜10時からの夕食はすばらしかった。たくさんの見栄えの良い料理が大皿に乗せて並べられたのだ。内訳は何種類ものサラダにスープ、様々な肉料理、卵料理、果物と菓子だった。それがおごそかに給仕されて行った。これを見た貴族たちは自宅でも同じような料理を作るようになったのである。

ただし、ルイ14世は肉よりも野菜や果物を好んで食べたと伝えられている。特に野菜が大好きで、王専用の菜園でたくさんの種類の野菜を栽培させて、毎日楽しんでいたらしい。一番の好物はグリーンピースだったと言われている。

またルイ14世は、当時にはよく使われるようになっていたフォークを使わずに、ナイフだけを使って料理を切り分け、手づかみで料理を食べていたらしい。しかし、その仕草はとても優雅で、それを見た貴族はとても感嘆したという(おそらくお世辞だろうが)。

ところで、食事に使うナイフは先が丸まっているが、これは暗殺を恐れたルイ14世が1669年に食卓で先の尖ったナイフの使用禁止を言い渡したからだ。当然、貴族は右にならえで、自宅のナイフの先を丸めたという。

このように栄華を極めたルイ14世だったが、後世まで続く失敗をおかしてしまう。それは1685年に出した勅許だ。この勅許では、フランスのプロテスタント教会の破壊、プロテスタントの礼拝の禁止、牧師の国外追放が命じられた。これはプロテスタントの存在を認めたナントの勅令を完全に廃止したことを意味していた。

その結果、プロテスタントはオランダ、ドイツ、スイス、イギリスなどに逃げ出した。その数は20万人とも言われている。ここで重要なのは、逃げ出したプロテスタントの多くが商人や職人だったことだ。

こうしてフランスの産業は下火になってしまう。逆に、プロテスタントを受け入れた国々で各種産業が発展したのである。現代のフランスがファッションや料理では卓越しているが、それ以外の産業でそれほどなのは、この時代の出来事を引きずっているからだと言われている。また、スイスが時計で世界一の地位を築くのも、移住してきたプロテスタントのおかけである。


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