2章第3部 灌漑農業の行き詰まりと新しい文明の食の革命
順調に船出した四大文明だったが、その後の存続という意味では明暗が分かれた。その明暗を分けた要因が「塩害」だ。
川の水には少しばかりの塩が含まれている。この塩を含んだ水を用いて灌漑を行っていると土壌中に塩が蓄積されていく。特に乾燥地帯では、強い日光によって水路の水が蒸発することで塩分が濃縮されるのだ。また、乾燥地帯の地下水には塩分が多く含まれており、灌漑水によって、この塩分が毛水管現象により土壌表面まで引き上げられてしまう。
こうして土壌中の塩分濃度が高くなると作物は育ちにくくなる。例えばイネは塩分濃度が0.2%以上になると生育が悪くなる。一方、ムギ類は比較的塩分に強いが、それでも塩分濃度が0.5%を超えると耐えられない。また、コムギはオオムギよりも塩分に弱い。
このようにして塩害が進んだ地域では食料の生産量が減少し、多くの人口を養うことができなくなる。その結果、地域の勢力が衰え、周辺勢力によって征服されてしまうことになるのだ。
塩害で衰退したメソポタミア文明
灌漑農業によって繁栄を極めたメソポタミア初期文明であったシュメール文明(紀元前3500年頃~前2000年頃)だったが、紀元前2500年頃から乾燥化が進んだことから、塩分が土壌にどんどん蓄積して行った。その結果、作物の生産量が減少し、やがて衰退の道をたどることになる。
これに拍車をかけたのが、川の上流域から塩類を多く含んだ土砂が灌漑用の水路に流入し堆積したことだ。
その経緯はこうだ。古代都市にはたくさんの材木が必須だった。このため上流域で木を切り倒したのだ。そして跡地に畑を作った。その結果、初期農耕が破たんした時と同じように、土壌の流失が起こり川に流入してしまったのだ。
チグリス・ユーフラテス川下流域では土壌中の塩分濃度が上昇するにつれて、コムギの割合が減って行った。当時の記録によると、紀元前3000年ごろにはオオムギとコムギの割合は同じくらいだったが、その500年後にはコムギの割合は5分の1になり、紀元前2000年にはコムギはメソポタミアでは育たなくなった。それと同時に収穫量が激減し、紀元前3000年に比べて紀元前2000年には半分にも満たない収穫量まで落ち込んでしまったのだ。
このようにしてシュメール文明の灌漑農業は塩害により次第に行き詰まり、国力が低下した結果、他民族の侵入を受けるようになる。そして紀元前1900年頃には、遊牧民のアムル人によってバビロン王朝が建てられる。この王朝では「目には目を、歯には歯を」で有名なハンムラビ王(在位:紀元前1792年-紀元前1750年)などが統治を行った。その後、メソポタミアは北方のヒッタイト(紀元前1600年頃~紀元前1200年頃)によって支配され、それ以降は、チグリス・ユーフラテス川下流域はオリエントの地方都市の一つとなってしまう。