
清盛と明要寺は深く関係しておりますが不幸なことに天正7年5月24日の秀吉軍の丹生山明要寺の焼き討ちにより資料も残っていません。
そこで年表により清盛が関係したと思われる史実を私なりに記します。
清盛は弐安3年(1108年)京の都にて寸百(すびゃく)にて病に倒れますが(当時は寺の僧侶が病気を治しました)その時に山田の里の明要寺療法を教えられました。
無事回復した清盛は始めて京より西方の明要寺の存在を感じたのではないでしょうか?
治承4年に福原の荘園に滞在中に何度も仏教の伝来地である明要寺を訪れたと思われます。
その時に明要寺の僧侶の滋養食である焼きういろうを食しました。その事を京に帰り和菓子として広めたと思われます。食文化史にも記してあります。その時に夏場の栄養ドリンクとして甘酒も庶民に広めました。京の東方の比叡山の麓に坂本と言う地名と明要寺の麓の坂本(写真のあたりです )と言う地名も同じ由来からではと思われます。何せ事歴が残ってないので私事で推測しました。この坂本の左上方には明要寺がありました
このプログを読んだ皆さんは調べてください。異論やまた明要寺療法にご質問があればコメント欄に書き込みをお願いします。
また明要寺療法について聞きたいことがあればメールを送ってください
メールアドレスはhujioka88@yahoo.co.jpまでお願いします。