Sketch of the Day

This is Takeshi Kinoshita's weblog.

北の音楽

2007-10-02 | Media
Sibelius: Symphony No 2 & Pohjola's Daughter
Sir Colin Davis, London Symphony Orchestra
 (LSO Live, 2005, 2006, 輸入盤)

英人指揮者にはシベリウスを得意とするヒトが多いそうであるが、なんとなく理解できる。イギリス(特に北部地域)と北欧は文化的にも景観的にも相通ずるところが多いような気がする。だから、シベリウスの音楽に、例えば、スコットランドの風景をダブらせてみてもなんの違和感もない。同じ「北」でも、これが例えばロシア音楽なんかだとぜんぜんイギリスのイメージとは合わない。このCD、LSOの自主制作盤で、ジャケットのデザインがどこをどうとってもイギリス的。無機的なデイヴィス卿の演奏もイギリス的といえようか。

カラヤン辞世の句

2007-09-20 | Media
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)+ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(演奏)
ブルックナー「交響曲 第7番 ホ長調」
(DG,1989,ウィーン,ライブ録音)

グラモフォンから「ドイツ・グラモフォン・ベスト 100」という廉価シリーズ(各1,800円)が発売になった。新録音はないが、いずれもデジタル録音なのがうれしい。西暦2000年代に入ってからの録音も相当数含まれていて、こうも再販が早いと、新譜を買う気がいささか失せる。とは言え、発売当初に買い逃した盤も結構あるので、再販には当然のことながら良い面もある。で、カラヤンの「ブル7」を買った。第2楽章アダージョの美しさに聴き惚れる。この録音の3ヶ月後に帝王は他界した。

余談だが、ウィーンフィルのウェブサイトは日本語をサポートしている(笑)。日本人はVPOを盲目的に崇拝する傾向がある、らしい。

弾む4番

2007-09-18 | Media
パーヴォ・ヤルヴィ(指揮)+ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン(演奏)
ベートーヴェン「交響曲 第4番&第7番」
(BMG, 2005(第4), 2004(第7), 2006(第7))

新譜というのはやはり音が良い。いまや再販の廉価版であれば千円そこそこで入手可能なクラシックCDだが、新譜に期待したいのはやはり新解釈の演奏と最新の録音技術だ。この録音は、低音が効いていて、弦や打楽器の振幅までもが聞こえてくるようなそんな印象だ。特に4番がよい

Gustavo conducts Gustav

2007-09-07 | Media
グスターボ・ドゥダメル(指揮)+シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ(演奏)
グスタフ・マーラー「交響曲 第5番 嬰ハ短調」
(DG, 2006)

音楽についての議論の存在意義が、「その対象の美的価値」に依存する、というのはあまり健全ではないと思う。

音楽をめぐる言説では、自分の美的な価値判断が無媒介に主張の意義と接続されてしまいがちで、それが当然と思われてしまう。言説が対象にべったりで、自律していないんですね。音楽についての言説が、その音楽を称揚するためにしか用いられていない。それは息苦しい。(以上、増田聡/サイトー商会


その音楽を「どう聴くか(解釈するか)」というのは、聴き手個々人に許された自由である。で、僕の場合は、絶対音楽というものにあえて視覚的イメージや特定の状況を重ねてみたりするのだが、マラ5にはどんなイメージがピッタリ来るか。これがじつに難しい。気づけば、音楽そのものに引き込まれていて、イメージを想起する余裕が与えられない。別な言い方をすれば、絶対音楽は「聴く場所」を選ばない。その点、マラ4などは視覚的にイメージしやすいほうで、結構聴く場所を選ぶ音楽である。

ところで、こういう「萌え」な聴き方が許されるのは、あくまで「個人のレベル」においてである。ブログのような公共空間で、このような「個人的な聴き方」についてああだこうだ言うのは、内面を吐露する以上の生産的な意味をもたないに相違ない。(←じゃ、書くなよ)一方で、音楽批評と称して、たいそう感覚的、個人的、萌えな言説が巷に流布していることもまた事実である。「萌え」こそが日本文化の本質であるなどという言説はその最たるものだ。個人レベルで萌えるのは大いに結構、当人の自由だ。僕だって萌えまくっている。しかし、それを恥ずかし気もなく一般化するとなると話は別だ。以前にも書いたように、僕はそういう言説には与することはできない。なぜ「オタク的言説」がダメなのか、「萌え的言説」がダメなのか、その理由については先の引用元を参照。じつに平易にわかりやすく説明してくれている。

入学式のBGM

2007-09-06 | Media
チョン・キョン=ファ(ヴァイオリン独奏&指揮)+セント・ルークス室内合奏団
ヴィヴァルディ「ヴァイオリン協奏曲:四季」
(EMI, 2000)

「入学式」のBGMにこの曲(「春」)を使い始めたのはいったい誰なんだろうか。すこぶる、お見事、と言うほかない。標題音楽(ただし「四季」はヴィヴァルディ自身の命名ではないが、各楽章に作者不詳のソネットが付されているので標題音楽に分類される[Wikipediaより])をあえて作者の意図とは異なるシチュエーションで使ってみるというのは、それはそれでクリエイティブであると同時に、なんとも「萌え~」な行為であると思う。

Drawing on the British Tradition

2007-08-17 | Media
Landscape Architecture, Vol.97 No.5, May 2007, ASLA

ECOLOGY: Are they getting it? By Robert F. Bruszek and James Clark
以前このブログでもご紹介させていただいた、英国造園協会(Landscape Institute)が進めている造園図面保存プロジェクトの取材記事。このたび、日本造園学会関東支部でもランドスケープ遺産の登録プロジェクトの一環として造園図書も遺産の範疇に含めまずはその所在から調査を始めたところである。早急な取り組みが必要である。

HISTORY: Drawing on the British tradition By Annabel Downs
もう一つ興味深かった記事は、エコロジカル・ランドスケープの美について、クロスビー・アーボリータムで来園者を対象に行った意識調査の報告。エコロジーに美学的にアプローチするという姿勢が面白いというかさすが。

大いに納得するけどそれじゃあダメだぜという心境

2007-08-15 | Media
鈴木淳史『萌えるクラシック』洋泉社,2006

大いに納得し理解するところだけれど、でもやっぱりそういう姿勢じゃあだめなんじゃないか、という一冊。本文は極めてマニアックで、クラシックの上級者でなければほとんど意味をなさないと思うが、この本のエッセンスは「まえがき」に凝縮されている。著者は、これまでクラシックは異文化として接しなければ意味がないというスタンスに立ってきた。異文化を自文化として同化してしまうのではなく、異文化を異文化として異化してこそ、はじめてクラシック音楽はこの国に根付くであろうと、主張してきたそうである。全く納得である。しかし,著者は続ける。でも、そんなこと(異文化の違いを理解すること)は絵空事であり、日本ではそんなことは絶対に起こるわけはないと。異文化として接するべきであると繰り返し主張したところで,この国ではなんの解決にもならないと。うん、ここまでも同意できる。しかし、この後の論旨展開については、気持ちはわかるけれども、僕はそういうスタンスをとらない。というか、とりたくない、と思う。これは間違っているとかじゃなくて、気持ちの問題だ。

曰く、「すべてを属性という単位にして引き受けることによって、実物のもたらす生々しさから一歩身を引くこともできる。つまり、異文化を自文化に変換して、都合良く取り入れるという文化が「萌え」というキーワードを要請した・・・日本文化は「萌え」そのものなのだ。・・・ヨーロッパをはじめとする異文化との付き合い方は、「萌え」に頼るしかないのでは、との思いがわたしのなかに芽生えてきた。異文化として付き合うのは無理なんであって、それよりも「萌え」を自覚して音楽に接するほうが、このニッポンで生きていく限り、まことに健康的ではないのか。それが一番正しい方法なのではないか」。う~ん。気持ちは痛いほどにわかる。おそらくはそれが事実かもしれない。しかし、事実であろうとなかろうと、なんというか、こういう考え方には僕は与したくない。「開き直り」にしか見えないからだ。「萌え」に自文化を見いだしつつ、心のどこかで異文化への憧憬を捨てきれずにいるようにもみえる。困難(あるいは不可能)かもしれないが、言い続けることが重要だろうと思う。もちろんそれじゃ「売れない」だろうけれど。

Historic Preservation

2007-08-14 | Media
Landscape Architecture Vol.97 No.7, 2007, ASLA

Cultural Landscape As Classroom
カルチュラル・ランドスケープ(文化的景観)評価の世界的な高まりに対するアメリカの回答(のひとつ)が文化的景観基金(The Cultural Landscape Foundation)による取り組み。危機景観に対するプログラム“Landslide / landscape at Risk”、アメリカンランドスケープデザインのパイオニア達を記録するプログラム“Pioneers of American Landscape Design”、教育用マルチメディア・プロジェクト“Cultural Landscape As Classroom”の3本柱で活動を行っている。このうちCultural Landscape As Classroomに関わる活動が、今年のASLAの賞を受賞している。良くできている。教育に打って出るあたりは上手い戦略だと思う。ASLAのウェブサイトでの紹介はこちら

The Getty Foundation's Campus Heritage Initiative
もう一つは、アメリカンランドスケープのミュージアムと呼びうる大学キャンパスのランドスケープを遺産として保護していくためのGetty Foundationの取り組み。
関連サイトの紹介が充実している↓↓↓
Society for College and University Planning
 http://www.scup.org/
The Alliance for Historic Landscape Preservation
 http://www.ahlp.org/
ASLA Professional Practice Networks
 http://host.asla.org/groups/cpdpigroup/
 http://host.asla.org/groups/hppigroup/
The Getty Foundation Campus Heritage Program
 http://www.getty.edu/grants/conservation/campus_heritage.html
National Trust for Historic Preservation
 http://www.nationaltrust.org/

ジャケット買い

2007-08-08 | Media
ジョージ・セル(指揮)+クリーヴランド管弦楽団
ドヴォルザーク「交響曲 第8番 ト短調 作品88 他」
(EMI)

僕はどんな名曲・名盤であろうが、ジャケット・デザインが気に入らなければ絶対にそのディスクを買うことはない。指揮者や演奏家をあしらったジャケットの場合には,アーティストのルックスや雰囲気が購入の可否を決める重要な判断材料となる。インテリアのアクセントになったり、何気なくテーブルの上に置いても見苦しくないデザインでなければ却下である。ジャケット・デザインには手を抜いて欲しくない。リード・マイルスによるクールなジャケットのデザインと相まって、トータルな作品性を打ち出していたのは往年のブルーノート・レーベルであった。クラシックレコードのジャケットは永らくデザイン不在の時代が続いたと言ったら言い過ぎであろうか。ところが、その状況に変化の兆しがみえてきた。「デザインしました」というのがミエミエなものや、アイドルのグラビアまがいの妙に色っぽいの(←最近多い)はどうかと思うが(まあ、オッサンはこーゆーのに弱いんだろうな)。。。

標記のレコードは演奏中のオケと指揮者を斜め上から捉えた臨場感ある写真で構成されたジャケットで、取りたててデザイン性の感じられるものではないが、やりすぎて失敗しているものよりはマシだ。ハズしてないデザイン。ところで、カップリングのスラヴ舞曲 第10番 ホ短調 作品72-2&スラヴ舞曲 第3番 変イ長調 作品46-3が主役の第8交響曲を喰っちゃうほどのすばらしさである。

多摩平の自然公園

2007-08-07 | Media
パーヴォ・ベルグルンド(指揮)+ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団
シベリウス「交響曲 第3番 ハ長調 作品52+第5番 変ホ長調 作品82」
(1987,EMI)

多摩平団地にある自然公園は、団地が建設される以前は宮内庁の苗圃だったところで、その時代から残るモミの群生があり都内でも貴重な林相を呈している。団地の建て替え事業に伴い公園も再整備されて、林間を縫う木道を歩いていると、実に清々しい気分に浸れる。この、いささか日本離れした風景のすばらしさは、1950年代、カナダ人のストーン牧師がこの地に農村伝道活動の本拠地を置いたほどである。こんな公園に面したフラットの一室で早朝、靄に煙るモミの木立を眺めながらシベリウスのシンフォニーなんぞを聴いたりしたら、さぞかし気持ちのよいひとときが過ごせそうである。

先入観と現実の落差もまた愉し

2007-08-02 | Media
レナード・バーンスタイン(指揮)+ニューヨーク・フィルハーモニック
ショスタコーヴィチ「交響曲 第5番 ニ短調 作品47」
(1979,東京文化会館,SONY)

カップリングはヨーヨー・マ(チェロ)+ユージン・オーマンディ(指揮)+フィラデルフィア管弦楽団:ショスタコーヴィチ「チェロ協奏曲 第1番 変ホ長調 作品107」(1982,フィラデルフィア)。ショスタコーヴィチというのはなんだか小難しそうで取っつきにくく、でもなんだか知的な雰囲気がして(←何の根拠もないのだが)、いつかじっくり聴いてみたいと思っていた、のは遠い昔(高校の時)のこと。しかし,その後ショスタコを聴く機会はついぞ訪れなかった。つい最近まで。。。果たせるかな、夢は叶った。結果、その音楽は知的というより、生々しく、逞しい人間の意志の力を感じさせるものであった。ところで、もう一人、知的な臭いのする作曲家がいる(←こいつも無根拠な先入観ではあるが)。プロコフィエフである。ピアノコンチェルトあたりから入ってみようと思っている。

ピタゴラスイッチ

2007-07-31 | Media
研究室の学生諸氏から誕生日のプレゼントをいただいた:『ピタゴラ装置 DVDブック Vol.2』(NHKエデュケーショナル)。じつは息子と一緒に前から目をつけていた品だったので、うれしかった。早速、息子(長男6歳)と拝見。う~ん、まさに脱帽の慶応佐藤研。Many thanks >> 学生諸君!
http://www.nhk.or.jp/kids/program/pitagora.html

His Master's Voice

2007-07-16 | Media
映画を見終わったあとふらりと立ち寄ったHMV*にて、マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)とクラウディオ・アバド(指揮)+BPOの演奏によるラヴェル「ピアノ協奏曲 ト長調」他、「夜のガスパール」「ソナチネ」「高雅にして感傷的なワルツ」「水の戯れ」収録のCD(DG, 1967, 1974, 1960,当初別々に発表された2枚のLPのカップリング)をゲット。アルゲリッチ初期の録音で、キラキラするピアノの音色が印象的だが、録音レヴェルが低いのが玉にキズ。それにしても、フランスの音楽というのは明るくてよい。

* HMVとは、英グラモフォン社(現 英EMI)の有名なトレードマークで、ワンちゃんが蓄音機を通して聴いている、亡くなった主人の声(His Master's Voice)の略からきている。(←うんちく)

ベートーヴェン4題

2007-07-13 | Media
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮+BPO+D.オイストラフ(ヴァイオリン)+M.ロストロポーヴィチ(チェロ)+S.リヒテル(ピアノ)によるベートーヴェン ピアノ、ヴァイオリンとチェロのためのトリプル・コンチェルト ハ長調 作品56(EMI,1969)。ジョージ・セル指揮+クリーヴランド管弦楽団+D.オイストラフ(ヴァイオリン)+M.ロストロポーヴィチ(チェロ)によるブラームスのヴァイオリンとチェロのためのダブル・コンチェルト イ短調 作品102(EMI,1969)とのカップリング盤。何とも豪華な顔合わせだが、カラヤンの統率力と表現力が冴えわたる名演。

ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮+VPOによるベートーヴェン 交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」(EMI,1952)。歌劇「フィデリオ」作品72 序曲をカップリング。かねてより欲しかったフルヴェンのエロちゃんをついにゲット。いい。すこぶるいい。何かこう身体の奥底から力が漲ってくるような、それでいて洗練された演奏である。モノラル録音だけど、音楽は音質ではないということを雄弁に物語ってくれる。この情熱。僕にとってのベートーヴェンのベスト・シンフォニーは、このエロイカとあとは合唱である。

マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)+ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)によるベートーヴェン ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 作品24「春」(DG,1987)、同第9番 イ長調 作品47「クロイツェル」(DG,1994)。これはものすごい演奏。まさに火花散る競演とはこの盤のためにある形容と言っても過言ではあるまい。クレーメルもすばらしいけど、アルゲリッチのピアノが断然いいんだよなぁ~。うっとりとするような「春」。ヴァイオリンとピアノのものすごいバトルから一時も眼(じゃなくて耳)が離せない「クロイツェル」。どちらもいいが、どちらかと言われれば僕はクロイツェルをとる。

ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮+バイロイト祝祭管弦楽団及び合唱団+E.シュワルツコップ(ソプラノ)+E.ヘンゲン(アルト)+H.ホップ(テノール)+O.エーデルマン(バス)によるベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱」(EMI,1951のモノラル録音、いわゆる足音入り)。長らく聴いてきたレコードをCDに買い換え。ライナーノーツに「音の世界遺産」とある。確かに名演だと思うが、ちょっとテンポがトロい(ただし第4楽章はすばらしい)。個人的にはレニー+VPOのグラモフォン盤もしくはレニー+ニューヨーク・フィルのCBSソニー盤(廃盤?)の演奏が僕は好きである。第9は第1楽章から第2楽章にかけてが一番好きなところ。そこがトロいのでどうもいまひとつね。第9には疾走感が必要。カラヤンのは論外だけど。

カラヤンのブルックナーなど

2007-06-25 | Media
吉松 隆『夢見るクラシック交響曲入門』ちくまプリマー新書、2006
この本を読むことでクラシックとロック(あるいはポップ・ミュージック)を繋げて(実際に繋がっていることを)理解できるようになった。大きな収穫。

岡田暁生『西洋音楽史-「クラシック」の黄昏』中公新書、2005
お勉強にはもってこい。クラシック好きがその歴史を手軽に俯瞰するにはもってこいの書物。

中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』幻冬舎新書、2007
「頂点」に上りつめるには「才能」だけではダメである。いやむしろ才能が邪魔することのほうが多いのかもしれない。才能だけで勝負しようとしない輩が世の中には溢れているからである。そういうことがイヤというほどわかる本。それにしても、「ベルリン・フィルを振る」という欲望の根源が、マエストロ達の純粋な芸術的実践の追求にあったのか、あるいは地位や権力、その結果としてのビジネス的成功にあったのか、そのことは最後までわからずじまいである。おそらく両方なのであろう。芸術(家)と政治(とくにナチス)との関係という視点からも面白く読める書物。

山本雅之『農ある暮らしで地域再生-アグリ・ルネッサンス-』学芸出版社、2005

カラヤン+BPOによるブルックナー「交響曲 第4番 変ホ長調 ロマンティック(ハース版)」(1970,EMI)
いい。カラヤンのブルックナーというのは大方の批評家筋にも一定の評価を得ていると思うが、僕の知る限り、クラシック通になればなるほど、カラヤンの音楽に対して否定的な態度をとる向きが多いようだ。音楽を「感じる」のに理論は不要だと思うが、音楽を「理解」しようとすれば理論は必要になる。僕は素人なのでべつに音楽を「理解」する必要はない。僕にとってカラヤンの音楽というのは、「感じる」ぶんには、じつに心地よく響いてくる。そして、たいそう格好よい。大好きな音楽である。