Sketch of the Day

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大いに納得するけどそれじゃあダメだぜという心境

2007-08-15 | Media
鈴木淳史『萌えるクラシック』洋泉社,2006

大いに納得し理解するところだけれど、でもやっぱりそういう姿勢じゃあだめなんじゃないか、という一冊。本文は極めてマニアックで、クラシックの上級者でなければほとんど意味をなさないと思うが、この本のエッセンスは「まえがき」に凝縮されている。著者は、これまでクラシックは異文化として接しなければ意味がないというスタンスに立ってきた。異文化を自文化として同化してしまうのではなく、異文化を異文化として異化してこそ、はじめてクラシック音楽はこの国に根付くであろうと、主張してきたそうである。全く納得である。しかし,著者は続ける。でも、そんなこと(異文化の違いを理解すること)は絵空事であり、日本ではそんなことは絶対に起こるわけはないと。異文化として接するべきであると繰り返し主張したところで,この国ではなんの解決にもならないと。うん、ここまでも同意できる。しかし、この後の論旨展開については、気持ちはわかるけれども、僕はそういうスタンスをとらない。というか、とりたくない、と思う。これは間違っているとかじゃなくて、気持ちの問題だ。

曰く、「すべてを属性という単位にして引き受けることによって、実物のもたらす生々しさから一歩身を引くこともできる。つまり、異文化を自文化に変換して、都合良く取り入れるという文化が「萌え」というキーワードを要請した・・・日本文化は「萌え」そのものなのだ。・・・ヨーロッパをはじめとする異文化との付き合い方は、「萌え」に頼るしかないのでは、との思いがわたしのなかに芽生えてきた。異文化として付き合うのは無理なんであって、それよりも「萌え」を自覚して音楽に接するほうが、このニッポンで生きていく限り、まことに健康的ではないのか。それが一番正しい方法なのではないか」。う~ん。気持ちは痛いほどにわかる。おそらくはそれが事実かもしれない。しかし、事実であろうとなかろうと、なんというか、こういう考え方には僕は与したくない。「開き直り」にしか見えないからだ。「萌え」に自文化を見いだしつつ、心のどこかで異文化への憧憬を捨てきれずにいるようにもみえる。困難(あるいは不可能)かもしれないが、言い続けることが重要だろうと思う。もちろんそれじゃ「売れない」だろうけれど。