旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

トルコ紀行29 ・・・ オリエント急行幕を閉じる

2009-12-18 10:58:48 | 

 前回書いたように、21世紀中葉にはトルコが覇権国に成長すると予測する著書のあることに驚いていたところ、昨夜のNHK『クローズアップ現代』では、126年の歴史に幕を閉じた“オリエント急行”が取り上げられた。題して「さようなら 夢の寝台特急激動史」・・・、

 オリエント急行が生まれたのは1883年。ベルギーの銀行家の発案に基づき、パリを基点にドイツのミュンヘン、オーストリアのウィーン、ハンガリーのブダペスト、ルーマニハのブカレストなどを通り、バルカン半島を経て東洋の国トルコのイスタンブールに至る列車を走らせるというもの。急行とはいえ、当時81時間を要したというから三日と9時間、寝台と食堂車を組み合わせた夢の旅を目指したものだ。
 当時フランスは第三共和制時代で、アフリカ、インドネシアなどへの植民政策に野望を抱いていたし、ドイツは鉄血宰相ビスマルクが率いるドイツ帝国、またハプスブルグ家を中心とするオーストリア・ハンガリー帝国と列強が支配していた。残念ながらわがトルコは衰え始めていたオスマントルコ帝国末期の時代であったが。
 
当然それぞれの国には鉄道が走っており、そこに一台の列車で次々乗り入れ、これら列強の国々を走って東洋のイスタンブールまで行こう、というものだ。中々の夢である。多くの旅行者がこれで旅し、また商人や事業家が出張や出稼ぎにこれを利用したことだろう。有名なのはアガサ・クリスティで、これを舞台にベストセラー『オリエント特急殺人事件』を書いた。

 このオリエント急行が、時代の高速化の中で引退を迫られ、先週の1213日のラストランをもって幕を閉じた。折りしもトルコを旅した者としていささかの感慨を抱いた。同行のK氏は、「出来ればオリエント急行の駅だけでも見たい」と言っていた。氏の旅行目的「東西両文明の結節点を見る」からすれば、この鉄道の発着駅は見ておく必要があったのだが、それを許す時間は無かった、ただ、アヤ・ソフィアからホテルに帰るバスから、その駅(シルケジ駅)を垣間見ることが出来た。残念ながらK氏親娘は地下宮殿見学のために同乗していなかったが。
 「あれがオリエント急行のシルケジ駅だ」と言うガイドの声に、私は慌ててカメラを取り出したが間に合わなかった。しかし常にカメラを構えていたM氏の写真を頂戴したので以下に掲げておく。
 それにしてもイスタンブールは、歴史の盛衰を感じさせる街であった。
                           

       


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