旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

『浜田廣介童話集』を読んで③ … 『泣いた赤鬼』

2016-10-14 22:10:38 | 文化(音楽、絵画、映画)



 この『泣いた赤おに』が、「ひろすけ童話」の代表作とされている。何がこの作品をして代表作たらしめているのだろうか?

――村を外れた山かげに、赤鬼が一人で住んでいた。赤鬼は、人間たちと仲良くなりたくてしようがない。そこである日、家の戸口に立札を立てる。「ココロノ ヤサシイ オニノウチデス ドナタデモ オイデ クダサイ オイシイ オカシガ ゴザイマス オチャモワカシテ ゴザイマス」……しかし人間どもはすぐには来ない。赤鬼の家を遠巻きにし、様子をうかがい、「きみが、わるいな」、「さては、だまして、とって食うつもりじゃないかな」と疑う――

 人間の鬼に対する意識は、簡単には変わらない。「なんといったって、鬼は鬼だからな」という意識がある。娘は、ここに「差別問題の根源」があるのではないかと思い、このオペラにとり組んだと言っている。国と国、民族と民族、人間同士の間にこのような意識がある限り、差別はなくならないのではないか、というのだ。

――悩む赤鬼に、友達の青鬼が一策を提案する。「僕が人間の村で暴れてやる。君はそれをとり押さえろ。人間は君をいい鬼だと信じるだろう」。赤鬼はそれを止めるが、「なにかひとつの めぼしいことをやりとげるには だれかが ぎせいにならなくちゃ できないさ」と、ことはそのように運んで、人間たちは毎日赤鬼の家に来るようになる。赤鬼は喜びの日々を送るが、それ以来、青鬼がいなくなったことに気づく。家を訪ねると、戸口に、「ボクガ キミトツキアウト ニンゲンガ キミヲウタガウカモシレナイ ボクハ ナガイ ナガイ タビニデル」とはり紙がある。赤鬼は、何度も読み返し、涙を流し、泣き伏す――

 物語はここで終る。赤鬼は念願の人間との付き合いを得るが、青鬼との貴重な友情を失ったのである。立松和平氏が、巻末のエッセイで二つのことを提起している。一つは、鬼が鬼として人間と付き合うには、「鬼の悪」を示す青おにの犠牲を要する。二つには、この物語の示すことは、底抜けに善良なのは二人の鬼で、ただお茶を飲みお菓子を食べにくる人間のどこが善良と言えるのだろうか、と書いている。鋭い指摘である。
 いずれにせよ、人間が持つ「鬼は鬼だから…」という差別意識が消えたのかどうかは分からない。また、「青鬼はいったいどうなったのだろうか?」、「赤鬼はその後、どうしたのだろうか?」という『つづき』が気になる。まだまだ、たくさんの課題を残す作品であり、それが名作なるゆえんかもしれない。

  
  ミャゴラトーリオペラ公演のチラシ


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