本来日記であればもちろんのこと、また、酒や旅について連載的に書いていつか纏めようということであるならば、公開することはほとんど意味がない。書き溜めておいて纏めていけばいいのだ。
しかし、公開することの最大の意味は、誤字脱字を含め間違いのないように、事実確認を含め誤りのないように、という緊張感を持って書くことにあるようだ。あとで読み返してとんでもない間違いを犯していることに気がつき、思わず赤面したことが何度もある。特にワープロによる漢字変換でとんでもないミスをやり、慌てて訂正することもしばしばだ。
単に書き溜めておくだけなら恐らく読み返したりしないだろうし、辞書を引いたり本を読み返したり、またインターネットでいろいろ検索して調べたりしないだろうと思うが、やはり万人に公開するとなるとそうはいかない。
その緊張感が最大の意味ではないか? もちろん、大して時間を使うわけではないし、それだけ誤りや誤字脱字を含んでいるに違いないが、それなりに注意や勉強しながら書くことの意義は大きい。それだけでも公開する意味があるのかもしれない。自分のようなだらしない人間は、せめてそのような縛りを設けながら、辛うじて生きて行くしかないのだろう。結局は自分のために公開する、というところにこの世界の奇妙さがある。
また、定期的に読んでくれている人が何人かは居るようだ。ありがたいことだが、もしその人たちのために書くのなら一斉メールでいいはずだから公開の必要はない。やはり前記した緊張感ぐらいしか意味はなさそうだが、それはかけがえのないものにも思えるので、もう少し「危険にさらす緊張感」を求めて書いてみるか・・・?
ただし、できるだけつまらないことを書かないように注意し、回数もできれば減らそう。つまらないことの方が面白いことが多いので、無味乾燥なブログになって行くかもしれないが・・・
このようなことを考え始めた契機は、最初に書いたように、人類はインターネットやウェブなどという素晴らしい技術を作り上げてきたのであるが、それを使いこなす規律、秩序、思想、哲学の面において追いついていないことに嫌気がさしたことによる。その状態は何も改善されていないどころか、今後ますます問題化していくだろうことだけは十分予測できる。
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