8月7日(日曜日)。鶴岡八幡宮の『ぼんぼり祭り』に行ってきました。昨日は夏越祭、今日は立秋祭、明日の実朝祭までの間、ぼんぼりが飾られます。鎌倉ゆかりの文化人や市民の方が思い思いに書や絵を描いて奉納するのですが、丹精を込めた手書きのものですので、何か味がありほのぼのとした感じが好いですね。 やっと梅雨が明けたかと思えば、もう立秋。鎌倉山では蜩の鳴き声も聞こえ、ぼんぼりのなかの揺らめく灯りを見ますと、もう1年が経ったのかとちょっと感傷的な気分になるから不思議なものです。
さてこの鶴岡八幡宮は江戸時代までは「鶴岡八幡宮寺」と言われていました。明治時代になり1868年に、従来の神仏習合・神仏混淆を禁止し、神道国教化政策を打ちだすため、神仏分離令が出されました。いわゆる廃仏毀釈です。特に鶴岡八幡宮は源頼朝の創建当時から神様と仏様が仲良く暮らす場所でした。今は若宮前のビャクシンの木だけが寺院の面影を残していますが、江戸時代までは三の鳥居をくぐり、源氏池を渡れば仁王門があり、今の舞殿を囲むように護摩堂、経蔵、薬師堂、鐘楼、大塔などがありました。これらの建物はことごとく破壊された訳で、なかに収蔵されていた経典や仏像などの文化財も散逸してしまいました。
当時の日本政府のこの貴重な文化財に対する無理解さについて、鎌倉大仏を例に出し、エルウイン・ベルツは『ベルツの日記』のなかでこう伝えています。 「青銅製の仏陀の坐像。麗しくも崇い面。しかし、日本政府はこの最も優秀なる青銅像を潰しの値段で外国人に売却せんと目論見たのであった。斯くまでに、信心と国粋に対する理解が亡失していたのであった。幸いにして、何も売却されることはなかった。」 今でこそ世界遺産登録に必死になっていますが、日本人の先人の残した文化財に対する無理解さを、当時日本に来た外国人はしっかりと見抜いていたわけです。今でも宅地開発やマンション建設のために貴重な文化財が破壊されています。何か残念な気がしてなりません。