人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 紅葉山やぐら ーー

2019-06-25 09:49:09 | 日記

腹切やぐらから宝戒寺に戻る途中に滑川を渡る宝戒寺橋があります。東勝寺橋からも川上に架かる宝戒寺橋をみることができますが、いままでこの橋の存在を意識したことはありませんでした。その宝戒寺橋の先に紅葉山やぐらがあります。このやぐらを訪ねるのははじめてです。位置的には腹切やぐら-東勝寺跡-紅葉山やぐら-滑川-宝戒寺と一直線に並びます。では、史跡『紅葉山やぐら』の案内板を紹介しましょう。

史跡『紅葉山やぐら』は、昭和10年(1935)に発見され、五輪塔や納骨、それに”海蔵寺十六井”と全く同じものが出土されておりますが、その時代考証からも、北条執権ゆかりの納骨といわれております。平成11年(1999)の大崩落後の神奈川県教育委員会の調査でも”十六井”が確認されております。

どうも北条執権ゆかりのお墓らしいですね。近くの宝戒寺には本尊の地蔵菩薩のほか、脇侍の梵天、帝釈天、それに閻魔大王像、十王像、奪衣婆と地獄の世界が広がっています。宝戒寺は北条一族の鎮魂のために後醍醐天皇が足利尊氏に命じて創らせたお寺。ただ鎮魂を目的とすれば、本尊の地蔵菩薩像だけでもよさそうですが、十王に梵天、帝釈天まで登場するとなると、なにか別の意図を感じざるをえません。どうも納骨を目的とした紅葉山やぐらは娑婆の世界、滑川は三途の川、宝戒寺は地獄の審判場所。まさに『往生要集』の世界そのもの。さらに建武の新政に逆らうものは地獄に落とすぞといった強い意思があると思うのは少し考えすぎでしょうか?

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鎌倉を知る ーー 腹切やぐら ーー

2019-06-25 08:33:19 | 日記

宝戒寺の近く、東勝寺橋を過ぎ、東勝寺跡の奥に腹切やぐらがあります。ご存じの通り元弘三年(1333)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めにより北条高時をはじめとする北条一族が自害した場所です。文治元年(1185)から150年近く続いた鎌倉幕府はこの日をもって滅亡しました。

現在この腹切やぐらは崩落の危険があるため近づくことができませんが、やぐらの中には供養のための石塔や塔婆が安置されています。その塔婆のなかに苅田式部大輔篤時 高倉健の名前を見つけることができます。2014年に亡くなった高倉健さんは北条篤時の子孫であることを誇りとし、この腹切やぐらに塔婆を納めていたようです。

さて北条篤時とはいかなる人物か?調べてみますと、苅田式部太夫篤時または尾張四郎篤時の名で実在していました。確かに『吾妻鏡』の文永三年(1266)七月の記事に尾張四郎篤時の名前がありました。どんなことかといえば、鎌倉幕府の5代将軍であった宗尊親王が将軍を廃され、京都に送還されますが、その供奉人の一人に名を連ねていました。史実に登場するのはそれだけなのですが、この記事は治承四年(1180)からはじまる『吾妻鏡』の最終ページ、最後の記録でした。なんとこれは・・・。やはり「健さん」はなにか持っているな思った次第です。

 

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