7月某日。かねて念願だった三内丸山遺跡の訪問が叶いました。某旅行社のツアーにのかったのですが、手段はどうあれ、やはり行って良かったというのが素直な感想です。
学校で習った縄文時代というのは、土器についた模様が縄紋であり、それが発見された遺跡を縄文遺跡と言いました。今回訪れた三内丸山遺跡はそうした浅薄な知識を覆すものです。何と言っても「北海道・北東北の縄文遺跡群」として令和3年(2021)7月に世界文化遺産に登録されたのだから凄い。一度世界文化遺産の登録にチャレンジし、断念した町とは大違いです。運動場整備のために発掘調査が始まり、平成4年(1992)の本格的な発掘調査から30年近くで後世に残すべき文化遺産となりました。
今回買い求めた『三内丸山遺跡ガイドブック』によれば、日本の縄文時代は紀元前13,000年前から紀元前400年頃にかけて、1万年以上の長期間にわたり、採取・漁労・狩猟を生業とし、定住を達成した日本独自の文化です。青森県でも成り立ったのは地球の温暖化が進んだせいと言われています。その中で三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期にかけての「円筒土器文化」に属しています。凡そ1,700年もの間、ムラが維持されてきました。ムラの規模は4.2haで東京ディズニーランドの敷地位。そこに500人程度住んでいたようです。逆に言えば、その位の広大な土地がなければ集落が維持できなかったということでしょう。住民の平均寿命は30歳前後。特に子供の死亡率が高ったようです。たぶん他のムラとの交流がなければ1,700年間もムラを維持することはできなかったと考えられます。食べ物はクリが主食で魚、動物など栄養のバランスは良かったのでしょう。
写真は大型竪穴建物跡と大型掘立建物跡のものです。前者は長さ32m、床面積270㎡の規模。後者は直径1m・高さ25mの栗の巨木が6本立った建造物です。柱の基礎の穴が6個発見され、残材の様子から外側の4本は斜めに立ち、建造物を支えていました。しかしこの建造物が何に使われていたかはまだ解明されていません。
残念ながら見学時間が短かく、考古学好きの好奇心を満たすには至りませんでしたが、この地に足を踏み入れただけでも至福の時間を過ごせました。