鎌倉駅から歩いて10分位の大町に妙本寺はあります。その昔、このあたりは比企ケ谷と呼ばれ、比企能員の屋敷があった所です。能員の養母は比企の尼といわれた源頼朝の乳母であった人です。北条政子ものちに二代将軍となる源頼家の出産のときにはこの比企家に世話になっており、頼朝の信頼も大変厚かったと思われます。実際、頼家は比企能員の娘をもらい、後継ぎの一幡を授かっています。
しかしながら、この比企ケ谷を襲った悲劇は1199年に頼朝が死んでから、1203年に起こります。比企能員が北条氏とってかわり将軍の補佐役となる野心を懐きはじめ、危機感をあらわにした北条時政が比企能員を殺害、幼い一幡をはじめ比企氏一族を滅亡させてしまいました。『吾妻鏡』によれば、源頼家は愚鈍な将軍として描かれていますが、勝者の論理で、本当のところはどうだったか分かりません。その後、源実朝が暗殺されてから、北条氏は頼家の娘を四代将軍藤原頼経夫人とし、源氏の血筋を絶やさないようにしました。
さて妙本寺ですが、このお寺、比企氏の乱で生き延びた能員の末子である比企能本が、この比企氏の屋敷跡に、比企氏一族の菩提を弔うためと師である日蓮のために建てたものです。日蓮宗のお寺のなかでは、身延山の久遠寺、池上の本門寺と並ぶ大変格式の高いお寺です。戦前まで代々の住職は、池上本門寺の住職が兼務していたようです。
私事で恐縮ですが、私の祖母が池上本門寺の近くに住んでいて、父親も熱心な日蓮宗の信者だったものですから、子供ころから池上本門寺には何回も連れて行かれましたので、特別な想いがあります。もともと曹洞宗と関係が深かった祖母が何故に日蓮宗の信者になったのか不思議でしたが、先日、妙本寺の方から日蓮宗は信者として女性を積極的に受け入れたとの話を伺い、若くして祖父を亡くし女手一つで四男、三女を育てた祖母の気持ちが理解できたような次第です。見て聞いてみないと分からないことがいっぱいあります。これが史跡巡りの醍醐味でしょうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます