黄瀬川の手前、三島の八幡神社の隣に智方神社があります。三島市長沢という地名であり、智方神社という名前の由来が不明です。入口に立派な案内がありました。読みますと、護良親王ゆかりの神社と書いてあります。鎌倉周辺にも護良親王にちなんだ場所がいくつもありますので、これは捨て置けず、「智方神社の由来」全文を写してきました。(昭和35年4月20日静岡県知事認証)とあります。
建武二年七月二十三日護良親王̪弑せらし時 御側に侍りし宮人南の方(藤原保藤の女)宮の御首を櫃に収め 御他界の情況を中央(南朝)に報ぜんがため従者を伴い 足柄街道を追手の目を避けて此の地(駿東郡清水町長沢当時は伊豆の国)黄瀬川の辺まで到着せり、時に八月一日黄瀬川の水張り渡渉すること困難なりしかば 暫時河岸に休息なされ 御櫃を見るに長の道中を運び奉る事の困難なる状を拝し 止むなく河岸近く古びたる小祠の辺りに地を求め 宮の御首級を葬り楠の一樹を植え 以て墓印となす。 時に北条時行は家令畠山国清の手兵併せ五千の兵を挙げ南朝に属せし 延元二年まで伊豆の藩主たりし間に御首級墳を石祠となし 更に神社となし現在に至る 当時足利氏の詮索を避けんがため 態と御祭神の名を秘し 神前下馬の札を諷示するため 白馬即ち白騎なり白騎即ち白旗なり白旗は源氏なり 足利氏は源氏なり 親王の霊廟を建立せる北条時行は平氏なり 御祭神大塔の宮と共に白旗を忌むとは当然の事なり 邑人子々孫々世の変遷にも絶つことなく密に此の口伝を固く守り続け御祭神の文献存せざる為 追及する事なく(追及しても足利・徳川と源氏の世続く)木彫御首級の御神体と白馬像御首級墳を大切に保存し今日に至り 御祭神漸く明確になり承認を得たるは御神威の程愈々広大なりと言うべきなり 茲に六百二十五年の星霜を経 貴重なる史実を得たるは真に喜ばしき限りなり
書き写して驚きました。護良親王、北条時行の名が出てくるとは、やはり駿東は北条の地でした。それにしても、隣が源頼朝と義経の対面の場を祀る八幡神社とは、この由来を書いた人物の凄まじい想いが感じられる文章です。
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