円覚寺正続院の門前に「佛牙舎利塔」と書かれた石柱があります。左面には「従大唐國能仁寺拝請」、裏面には「寛政四年壬子十月十五日」、右面には「征夷大将軍源実朝公」の文字が見えます。歴史探訪の楽しみは、この四面の情報からどれだけ妄想を膨らませ、過去に想いを馳せるかにあります。
まず舎利というのはお釈迦さまの遺骨のこと言います。そして佛牙とありますので、これはたぶん歯であることが想像できます。次に思うのは、このお釈迦様の舎利(歯?)が何故に円覚寺の舎利殿に収められているかです。次の手掛かりは、大唐國能仁寺拝請の文字ですが、この舎利は中国の能仁寺から請来したものであることが分かります。では何のために、誰がわざわざ中国から舎利を請来させたのでしょうか?そこで征夷大将軍源実朝公が登場します。とはいっても、円覚寺の創建は1282年なので、円覚寺は実朝の時代にはなかったはずですが・・・?
そこから記憶を頼りに資料を漁るわけです。『生誕八百年記念 源実朝』(鎌倉市教育員会・鎌倉国宝館編集)の中に、三渕美恵子氏の ー源実朝の遺跡伝承ー がありましたので、紹介します。
あるとき実朝は、自分が中国能仁寺の開山である南山道宣の再来であることを夢に見た。同時に鶴岡八幡宮の良真僧都と明庵栄西も同様の夢をみたので、実朝は能仁寺の仏牙舎利の請来を思い立ち、良真・葛山景倫ら十二名を遣使の結果、ようやく目的を果たし、これを大慈寺に安置した。大慈寺が退転ののち、北条貞時は、大休正念とはかって円覚寺に舎利殿を建てて、この舎利を移した。
これで凡その経緯が分かりました。次はこの石柱が建てられた寛政四年(1792年)という時期です。将軍は徳川家斉で松平定信が「寛政の改革」で幕政の立て直しを図っていました。そして鎖国時代にも関わらず、ロシアの南下政策により、ロシア船が根室に来たという記録もあります。石柱が建てられたのは、何か別の事情だと思いますが、その背景をいろいろ想像するのが醍醐味でしょうか。