木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

浜野炬随~努力は裏切らない?

2012年11月15日 | 江戸の人物
二代目・浜野炬随(はまのくずい・はまののりゆき)。
江戸時代の刀剣装飾職人(彫物師)である。
父親である初代・浜野炬随は名人として名高かったが若き日の二代目は生まれつき不器用で、彫ったものはわずかに万屋新兵衛のみが買い取ってくれていた。
だが万屋もついに我慢ができず、「もう彫物師など止めたほうがいい」と厳しく忠告した。
ショックを受けた炬随は絶望のあまり自害しようとしたが、その試みを母親に見破られてしまう。
母親は、
「死ぬのは構わないが、いまはのきわに土産として母に観音像を彫りなさい」と命ずる。
炬随はこの世で最後の仕事と思い、寝食も忘れて一心不乱に仏像を彫りあげた。
その観音像を見た母親は満足げに、
「この像を万屋に持って行きなさい。値は三十両。一文もまけてはなりません」
と告げる。
言われた通りにした炬随であるが、一目観音像を見た万屋は、
「まだ先代の彫った像が残っていたのですか。先代の作品なら三十両は安いものだ」
と言った。
「いえ、その像はわたしが彫ったものです」
と炬随が事情を話すと、まるまる三十両での買い取りを約束した万屋は、
「人間死ぬ気になってやればできるものだ」と感心し、大化けした炬随の成長を喜んだと言う。

よく「努力は裏切らない」という言葉を聞く。
これは嘘だ。
「願い続ければ必ず夢は叶う」が嘘のように。
たとえどんなに努力しても目に見えるところ=結果、として現れてこなければ全く意味がない。
「努力すること」だけでは不十分で「必死に努力する」ことが成功の条件なのだろう。
夢だってただ長く持ち続けていればいいというものではない。

わたしの例で言うと、昔書いていたものを読み返すとよく分かる。
現地にも何度も行って取材をし、丹念に文献を調べ、必要があれば専門家に手紙を書いた。
その上で十分時間をかけて執筆したのだが、肝心のストーリー運びで失敗している。
結局「自分はこれだけ時間をかけて、これだけ努力したので大丈夫だろう」という気持ちの甘え、自己満足があったのだ。
受験生でも「図書館に座っている」という行為に満足してぼーっとしている時間の長い人を見かける(わたしもそのひとりだったが)。
行為自体に満足してしまって、決意と言うか、必死さが足りないのである。

炬随も努力はしていたに違いない。
でも気持ちに甘えがあった。
「今日できなくても明日がある」
「明日でなくともあさってがある」
その繰り返し。
わたしを含め、多くの人がそう思いがちだ。
人生は永遠に続く訳ではない。
毎日全力疾走していたのでは続かない。
でもダラダラと歩いているばかりでは、いつしか走ることもできなくなってしまう。
走れなくなって初めて呆然とするだけだ。
いつ走るかは人によって違う。
わたしにとっては、「今」が走るとき。

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天保の改革と日光参拝~水野忠邦

2012年10月11日 | 江戸の人物
水野忠邦というと、悪名高い天保の改革の指揮者として有名である。
ときの将軍・家慶が好物の初ショウガも食べられず、ぼやいた話も残っている。
しかし、別の一面もある。
忠邦は、吉宗以来途絶えていた何かと費用の掛かる日光参拝を復活したのである。
同じく倹約令を敷いていた吉宗が久しぶりに日光参拝を復活した点も面白い共通項だ。

最後に家綱が日光に参拝した寛文三年から実に六十五年が経った享保十三年。
八代将軍吉宗がのちに享保の改革と呼ばれる緊縮財政を行なっているときに、日光参拝は復活した。その後も歴代ごとに行なわれることがなく、十代家治、十二代家慶の御世にのみ行なわれた。
日光参拝が敬遠された理由は、費用が掛かりすぎる点にあった。
大御所政治を敷いた家斉も、文政九年に日光参拝を計画しながらも、金銭的理由により断念した。
この日光参拝に並々ならぬ意欲を燃やした男がいる。ほかならぬ老中・水野忠邦である。
忠邦は、天保の改革の倹約政治だけが喧伝されるが、一方では思い切った金の使い方をした人物である。
家慶の日光参拝を忠邦が計画し始めたのは、天保十一年頃と言われ、同年十月には作事奉行若林佐渡守と勘定吟味役中野又兵衛を日光に霊廟や諸堂社の修復のために派遣している。翌十二年正月には日光神領の改革も開始されている。
忠邦は参拝の費用は倹約や富裕商人からの寄付で遣り繰りしようとした。三年来の長期計画を立てた念の入れようで、相当な散財となるこの行事を成功に導いた。
寛政六年、忠邦は肥後国唐津六万石の藩主水野忠光の子として生まれている。十九歳にして家督を継ぐと、幕政の中枢への憧れ捨て難い彼は浜松藩六万石への転封を上申する。唐津藩は長崎警護の任務があり、幕閣に列席できなかったからである。
浜松藩も唐津とお同じ六万石であったが、石高には表高と内高がある。表高は格式とも言うべきもので、この大小によって家の格式や江戸城での部屋が決定される。内高は実質的に収穫される石高のことである。浜松は格式が高い家だったので、表高も内高もほぼ同じ六万石であったのに対し、唐津は表高六万石、内高二十万石であった。
家臣の猛反対を押し切って浜松に転封になった忠邦はそれ以降、中央への足掛かりを作ることに成功していくのだが、この計算などを見ても、忠邦は人とは違った算盤を持っていた男と言える。
「天高く」より引用


注目されるのは参拝の費用を「倹約や富裕商人からの寄付で遣り繰りしようとした」という点である。
日光参拝は徳川幕府の権威復活を示すデモンストレーションであったが、天保の改革の倹約も、費用捻出ための一環であったのだ。

忠邦が老中を罷免されたとき、江戸町民は忠邦の屋敷に石を投げて喜んだと言う。
そんな没落を見て、かつてはこびへつらうように従っていた町奉行・鳥居耀蔵らは手のひらを返したように冷たく接したのであるが、忠邦は翌年に再び老中に返り咲いている。

忠邦が城に再出仕する日。
幕府の役人は慌てて木綿の質素な着物に着替えて忠邦の到着を待った。
そこへ新調した黒羽二重のきらびやかな美服を従者にも着せて、忠邦が登城した。
待っていた一同は、唖然としたと言う。
忠邦は老中に就いていた8ヶ月の間に、裏切者の鳥居甲斐守、榊原主計頭などをクビにし、かつては、うるさがって遠ざけていた徳川斉昭の幽閉を解くことに成功した。

時代に逆行したと言われる天保の改革を行った忠邦は過小評価される場合が多いように思うが、信念の人だったには違いない。
政策的な評価は別として、私の目には忠邦は魅力的な人物に映る。

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貝原益軒と浮気~接して漏らさず

2012年08月27日 | 江戸の人物
今日、8月27日は貝原益軒の命日である。
享年85歳。正徳四年(一七一四年)の出来事であった。

もともと病弱であった益軒は、自らの体験から、短命と思われる人も養生さえよく行えば長く生きられると主張した。
その考えを纏めたのが有名な『養生訓』である。
夫人である東軒に先立たれた益軒、84歳のときの著作である。

『養生訓』は「接して漏らさず」の言葉だけが独り歩きして、なんだか性生活の指南書のように思われている節があるが、益軒の著述は食べ物から、呼吸法、気の持ち方など多岐に分かれていて、性に関する部分はほんの一部である。

でも、少し気になるので、「接して漏らさず」の項を拾い読みしてみる。

四十以上の人は、交接のみしばしばにして、精気をば泄(もら)すべからず。四十以後は、腎気やうやく衰る故、泄さざれども、壮年のごとく、精気動かずして滞らず。此法行ひやすし。この法を行へば、泄さずして情慾はとげやすし。然れば、是気をめぐらし、精気をたもつ良法なるべし

「漏らさなければ」どんどん性行為を行ってよい、と言っている訳ではなく、

年若き時より、男女の慾ふかくして、精気を多くへらしたる人は、生れ付さかんなれ共、下部の元気すくなくなり、五臓の根本よはくして、必短命なり。つゝしむべし。

性欲は、なるべく慎んだほうがよいと忠告し、回数についても言及している。

人、年二十者は四日に一たび泄す。三十者は八日に一たび泄す。四十者は十六日に一泄す。五十者は二十日に一泄す。六十者は精をとぢてもらさず。もし体力さかんならば、一月に一たび泄す。気力すぐれて盛なる人、慾念をおさへ、こらへて、久しく泄さざれば、腫物を生ず。六十を過て慾念おこらずば、とぢてもらすべからず。わかくさかんなる人も、もしよく忍んで、一月に二度もらして、慾念おこらずば長生なるべし

よくよく読んでみると、こんな内容である。
医学的に正しいのかどうか分からないが、他の記述では現代にも通じるような部分も多い。
()内の宛先は、筆者記入。

(飲兵衛諸氏へ)
酒を多くのんで、飯をすくなく食ふ人は、命短し。

(怒髪仙人へ)
怒の後、早すべからず。食後、怒るべからず。憂ひて食すべからず。食して憂ふべからず。

(食いしんぼさんへ)
人生日々に飲食せざる事なし。常につゝしみて欲をこらへざれば、過やすくして病を生ず。

(逆境にある人へ)
人をうらみ、いかり、身をうれひなげきて、心をくるしめ、楽しまずして、むなしく過ぬるは、愚かなりと云べし。たとひ家まどしく、幸なくしても、うへて死ぬとも、死ぬる時までは、楽しみて過すべし。貧しきとて、人にむさぼりもとめ、不義にして命をおしむべからず。

益軒が22歳年下の東軒と結婚したのは39歳の時。
東軒は儒学、漢詩などに優れ、夫の著述をよく助けたと言うが、益軒より一年早く62歳で死去。
原典が分からないので詳しいことは分からないが、清水桂一氏の「食通一日一言」(新人物往来社)によると、東軒は浮気したことがあり、益軒は詫び状を書かせ、許したと言う。
何とも益軒先生らしい行為である。
その益軒も、夫人の死後一年を待たずに鬼籍に入ってしまったのだから、東軒がよきパートナーであったには違いない。

参考:養生訓(岩波文庫)

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吐瀉物を食べた山岡鉄舟~鉄舟流鍛錬方法

2012年07月19日 | 江戸の人物
今日、7月19日は山岡鉄舟が没した日。明治21年のことで、享年53歳。

山岡鉄舟は剣豪として名高いが、手元にある高校の教科書には名前が載っていない。
「鉄舟は何をした人?」と、改まって聞かれると、結構分からない人が多いのではないだろうか。
江戸城開城の際に、勝海舟の代理として駿府に滞在していた西郷隆盛のもとに赴き、交渉を成功させた。この件が歴史的には一番有名だが、そんな史実は鉄舟の人となりを語らない。

鉄舟を調べていくと、かなりの変人だという印象を強く持つ。
言い方を変えれば、自分が追い求める真実・真理追求のためには、誰が何と言おうと決して道を譲らない頑固者。偏屈と言ってもよい。
生活そのものが求道であり、生きるとは真理を見極めることに他ならなかった。
鉄舟を人は剣豪と呼ぶが、彼にとって剣も道を極めるための手段であったし、禅にしても同じだった。
このような表現をすると、鉄舟は山にこもって仙人のような生活をしていたかのように思われるかも知れないが、そうではない。

「最後のサムライ 山岡鉄舟」から鉄舟夫人・英(ふさ)の話を引用する。

二十四、五歳の頃から盛んに、飲む、買うというようになりました。もっとも一人の女に入れ揚げるというのではなく、なんでも日本中の商売女をなで斬りにするのだと同輩の者には語っていたようです

心配した親族が離縁するよう夫人に迫ると、鉄舟は「うるさい身内など、没交渉のほうが、面倒がなくてよい」と語ったので、怒った親族とは絶交となったと言う。
ストイックな印象の強い鉄舟だが、この行為は「まことに情欲を断ちたいと思うなら、今よりも更に進んで情欲の海に飛び込み、懸命に努力してその正体を見極めるしかない」という鉄舟の徹底した姿勢から出たものだった。
調子のいい話だと思った人もいるのではないだろうか。
その人たちには、次の強烈なエピソードを紹介したい。

無刀流を開いた明治十三年以降、鉄舟は毎年三月三十日に無礼講の宴会を開くのを常としていた。
ある年、一人の門人が鉄舟の前に手をついて何かを言おうとした瞬間、吐瀉してしまった。
鉄舟は、何を思ったか、門人が戻した汚物を片っ端から食べて、跡形もなくした。
これは、鉄舟の考える浄穢不二、つまり清いものと汚いものの区別を超越するための鍛錬だった。
弟子が「それにしても、体に毒でございましょう」と鉄舟の身を気遣うと、「畳の上の水連では役に立たない」と笑ったと言う。

このような徹底した鉄舟の態度をみると、先の色情を絶つために情欲の渦に飛び込む、という行為も鉄舟流の鍛錬に違いなかったことが分かる。
もうひとつ面白いエピソードがある。
酒席で夜中まで飲んでいると、健脚を誇る者がいる。成田山までの往復百四十キロを誰か、明日一緒に歩かないか、と豪語した。
酒席のことだから、流せばいいものを、鉄舟は「それがしが同行いたす」と受ける。それが今で言う午前一時。出発は四時。当然、言いだしっぺは起きることは起きたが、歩けもしない。
それでも、約束は約束、と鉄舟は一人で成田山まで歩き、その日の深夜にすり減った下駄の歯と共に帰って来た。

鉄舟は身の丈六尺(180cm)。頭脳も優秀で、体力にも恵まれていた。親の死に別れにより、若い頃は金銭的には恵まれていなかったが、自己を肯定する気持ちはかなり強かったに違いない。
成田山の話にしても、笑って済ませばいいのに、信念があったのだろうが、非常に頑固で融通の利かない行為である。
買色の話にしても、夫人にも周囲にも何一つ説明がないし、文句を言う親族は邪魔とばかりに切り捨てる。
吐瀉物の話にしても、思いつきの域を出ない。
それでも、私は鉄舟の行為には憧れに似た気持ちを抱く。

人は行為によって地位を得る。
地位によって、己を証明したいと願う。

「優秀だから、出世した。だから俺は偉い」
「私は努力した。その結果、マラソンでこれだけ速い記録を残せた。だから、わたしは凄い」

鉄舟は全く逆で、自分自身が満足できる境地に辿り着ければ、名誉も金もいらなかった。
そんな鉄舟の周りには自然と人が集まってきたし、地位も得た。
時代がよかった、と片づけてしまうのは簡単だが、精神の綺麗さ、潔さというものを思わずにはいられない。
鉄舟は頑固で無骨者であったが、驚くほど素直な性格の持ち主だった。周囲の人間も、時には鉄舟の言動に振り回されながらも、彼の魅力に惹きつけられたのだろう。

華族にするとの知らせを聞いたときに詠んだ句が鉄舟らしい。

「食ふてねて 働きもせぬ御褒美に 蚊(華)族となりて 又も血を吸ふ」



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清水の次郎長とSONY

2012年07月14日 | 江戸の人物
マックスバリュ清水三保店は、「清水の歴史」という小冊子を作って無料配布している。手作りながら、レイアウトの綺麗な非常によくできた小冊子である。
当然、地元の名士である清水の次郎長にも触れている。

もしも次郎長が単なるゴロツキの集まりの大将であったなら、天下の大親分なんて決して言われなかったであろう。(略)
次郎長の前半生を「義理の人」とするならば後半生はまさに「人情の人」と言えよう。(略)
人情もろくて義理がたい。おっちょこちょいだがノンビリ屋。言葉は汚いが、気持ちはきれい。ちょびちょびおせっかいをやきたがる。


任侠の世界にどっぷりと浸かっていた次郎長はまさしく、斬った張ったの世界の住人で、江戸時代が平和のまま続いていたなら、決して陽の当たる道を歩けない人物だった。
幕末の混乱は、次郎長に味方した。新政府(いわゆる官軍)の要人にしたところで、暗殺やテロの経験者だったから、殺人や殺人ほう助犯であっても、任侠の世界での罪は混乱に乗じて帳消しになった。
もうひとつ幸いしただったのは、次郎長が助けたのが新政府ではなく、旧幕軍であったことだ。
次郎長が幕軍に付いたのは、駿府という土地柄もあるのだろうが、その選択が正解だったのは、次郎長のライバル、黒駒勝蔵の命運を見れば分かる。

勝蔵は甲州に縄張りを持つ親分。
清水の次郎長と甲州の黒駒勝蔵との抗争の背後には、清水港から甲州に運ばれる「甲州行塩」問題があった。
清水港に上がった塩を清水の商人はなんだかんだと値を上げ、甲州の商人に高値で売っていた歴史がある。
また米は逆で、甲州から清水に運ばれたが、ここでも荷役等をどう分割するかで問題が起こっていた。
このことから、自然に清水と甲州は、ライバル関係にあった。

次郎長と勝蔵は血で血を洗う抗争を繰り広げて行くのだが、時代は江戸時代から明治時代に移行しようとしていた。
この時期、勝蔵は赤報隊に入隊する。
勝蔵が官軍サイドの赤報隊に入ったのは、勝蔵が幕軍と敵対する仲であったからだ。
新島を島抜けした博徒の親分「ども安」こと武居の安次郎を勝蔵が匿っていたことがあり、勝蔵は幕府から「指名手配」される身であった。
ども安は勝蔵の親分であったが、島抜けという大罪を犯したども安も捕えられ、幕府の手によって処罰される。勝蔵は、これ以来、幕府には反感を持ち、官軍寄りの赤報隊に入った。
赤報隊は、政府にいいように使われ、邪魔となったらポイと捨てられている。
勝蔵は赤報隊沈没時の渦からは身をかわし、その後、官軍の徴兵七番隊に池田数馬の偽名で入隊する。
錦の御旗を振って駒を進めている頃はよかったが、勝蔵は明治四年十月に突然、処刑されている。
詳細な理由は分からないが、赤報隊と同じく、「邪魔になったら、即切り離す」方針はいかにも新政府らしいやり方である。
一方の次郎長は咸臨丸の件から、ぐっと幕軍に近い存在となったが、これまた幸いなことに、駿府は山岡鉄舟、関口隆吉、松岡萬など幕府の関係者が政治の中心に就いた。

「清水の歴史」によると、次郎長は、

有度山(静岡市)の開発、三保(清水市)の新田開拓、巴川(清水市)の架橋などの地元事業のほかに、遠州相良(榛原郡相良町)で油田の発掘事業にも携わったり、鉄舟の勧めで富士の裾野(現富士市大淵次郎長町あたり)の開墾に着手。

とある。

土建事業は今も昔も旨味の多い商売である。利権を政府から正式に与えられていた次郎長は、もはやアウトローに身をやつす必要など何もない。
若い頃は武力を以て商売敵を蹴散らす必要があったが、政府からのお墨付きがあるからには、好々爺を演じていればよかったし、倣いが本当の性格になっていったのかも知れない。
次郎長が偉人であったとか、善人であったなどという話にはどうにも疑問符を付けざるを得ないが、清水の大物実業家であり、実力者であったのは間違いない。

明治八年二月、清水に「中泉現金店」が開業した。この店は知多半田港で醸造業を営む中埜又左衛門と盛田久左衛門が共同で販路を広げるために作られた。この際には、清水の有力店「松本屋」に対してM&Aが行われたが、この話を纏めたのが、次郎長である。次郎長は面倒な交渉事もおこないうる実力を有するようになっていたのである。
ちなみに、この盛田家からは後にSONYを興す盛田昭夫が出る。

あまりに理不尽な勝蔵の最期と、成功した次郎長の晩年を思うと、運命の不思議さを感じる。
次郎長の成功は、人脈に恵まれた点が大きい。
大政、小政、相撲常吉など多数の個性豊かな子分。
鉄舟など旧幕軍の支持。
次郎長の運は強かったに違いないが、人脈を捉えて離さない人間的な魅力が次郎長にあったのだろう。

鉄舟に「これからは理学が必要だ」と言われた次郎長は急いで本屋に飛び込み、「理学の本を見せてくれ」と頼んだ。すると主人は山のように本を並べ出した。文盲の次郎長は「とてもこんなに多くては駄目だ」とほうほうのていで逃げ出したという。
次郎長にはこの手の話が多い。
もしかすると、次郎長の演出ではないか、と思えるが、なんとも人間臭い話だ。
「実業家」になっても次郎長は任侠時代の暗い影を忘れていなかったし、ふんぞり返っていた訳でもないように思える。
こういった次郎長の性格に運が味方したのも知れない。



次郎長の子分、小政の写真。冷血な殺人マシンだっと伝えられる。次郎長が「実業家」に転身してからも素行が改まらず、浜松で獄中死している。



大政の写真。尾張出身。身体が大きく、槍の遣い手。次郎長一家で一番のインテリだったとされる。

梅?寺HP

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山岡鉄舟~西郷隆盛との会見

2011年05月14日 | 江戸の人物
山岡鉄舟(山岡鉄太郎高歩{たかゆき})天保七年(1836)~明治21年(1888)は、剣豪として名高いが、ひとりも人を斬ったことのない、不殺の剣士でもある。
北辰一刀流の遣い手として、千葉周作の玄武館や、幕府の講武所で剣を学び、頭角を現した。
その一生を見ていくと、驚くほどの頑固さと、驚くほどの素直さが同居しているのが分かる。
凝り性で、自分が信じた道は、人から何を言われようと曲げようとしないのであるが、間違いが分かれば素直に頭を下げることもできる人物だった。

鉄舟の名を一気に有名にしたのは、慶応四年三月八日、駿府伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われた西郷隆盛との会見である。
JR静岡駅から歩いて5分ほど行ったところに隆盛と鉄舟の会見碑がひっそりと建っている。
場所は、旧東海道である伝馬町通りと北街道が交わる江川町交差点の手前、ペガサードというビルの前になる。
この会見は、勝海舟の使いであって、鉄舟には全権は委任されてはいなかったが、強い信念を持った鉄舟の態度は、権限とか責任などの枠を超えて、隆盛の胸を強く打った。
その証拠に西郷側から提示された五つの条件のうち、徳川慶喜を備前に預けるという項目についての譲歩を得ている。

この会見の内容については、鉄舟が岩倉具視の求めに応じて書いた「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ赴イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」に詳しい。
何事も大げさに言う癖のある勝海舟の書であったら、割り引いて読まなければならないのだろうが、鉄舟の文であるから、そのまま素直に読んでいいと思う。下記が部分部分の抜粋である。

大総督府の本営に至るまでに、もし自分の命を奪う者があったなら、非はその者にある。わたしは国家百万の生霊に代わってことに及ぶのであるから、生命を捨てることになろうと、それはもとよりわたしの望むところである。(略)

六郷川を渡ればすでに官軍の先鋒が達しており、左右に銃隊が並ぶ。その中央を通っていったのだが、止める者はいなかった。隊長の宿舎と思われる家に至ったので、案内を請わず中に入り、隊長を探したところ、そう思われる人がいた。
大声で「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎。大総督府に行く!」と断ると、その人は「徳川慶喜、徳川慶喜」と二度ほど小声で言うのみ。この家に居合わせたのは、およそ百人ほどと思われたが、誰もなんとも言わない。ただ、わたしのほうを見ているばかりである。(略)

(静岡にて)しばらくして、西郷氏がわたしに言ったのは、「先生は官軍の陣営を破ってここに来ました。本来なら捕縛すべきところなれども、よしておきましょう」というもの。わたしが「縛につくのは望むところです。早く縛ってもらいましょう」と答えると、西郷氏は笑って「まずは酒を酌みましょう」と言う。数杯を傾けて暇を告げれば、西郷氏は大総督府陣営の通行手形をくれたので、これをもらって退去した。(略)

(後日)大総督府の参謀より、急ぎの用があるので出頭すべし、とのお達しがあった。わたしが出頭すると、村田新八が出て来て、「先日、官軍の陣営をあなたは勝手に通っていった。その旨を先鋒隊が知らせてきたので、俺と中村半次郎で追いかけて斬り殺そうとしたが、あなたはとっとと西郷ところへ行って面会してしまったので斬り損じてしまった。あまりの口惜しさに呼び出してこのことを伝えたかっただけだ。別に御用の向きはない」と言う。わたしは「それはそうであろう。わたしは江戸っ子で足は当然速いのだ。あなたがたは田舎者でのろま男だから、わたしの速さにはとても及ばないだろう」と言って、ともに大笑いして別れた。

この文から読み取れるのは、武士道というよりもフェアプレイの精神ではないだろうか。事の是非は是非として、後に一塵の遺恨も残さない。
そして、命を賭けて、一大事をなそうとする精神。
ともに、現代に欠けているものに思われてならない。

西郷隆盛に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり」と言わせ(西郷南洲遺訓)、勝海舟に「山岡鉄舟も大久保一翁も、ともに熱性で、切迫のほうだったらから、かわいそうに若死にをした。おれはただずるいから、こんなに長生きしとるのさ」(氷川清夜)と言わせた鉄舟。
ふたりの言葉通り、鉄舟は金とも名誉とも無縁に生きた。
晩年は剣と禅に深く関わって生きたが、単なる朴念仁ではなかった。落語家の三遊亭円長をはじめとした幅広い交友関係もあり、ユーモアの感覚も持ち合わせていた。
鉄舟に金千円を貸した松崎某は、後日、一筆取っていないことに気づき、鉄舟に借用書を書いてくれるように頼んだ。
そこで鉄舟が書いたのが下記の文句である。

なくて七癖、わたしのくせは、借りりゃ返すのがいやになる
右に記したような癖があるから、俺の借金の証文なんて意味がないが、もらうのだったら多少のところは構わない


松崎某は借金を踏み倒されるのかと、愕然として知人に相談したところ、知人はあの山岡鉄舟が書いた洒脱の借用書は価値があると言い、千円で買いたいと言い出す。
松崎某はそれを聞いて、この証書を家宝とした。後日、鉄舟が返金に来ると、金はいらないから、この書は手元に留めたいと言う。鉄舟は仕方なく、その書に加え、数千枚の墨跡を書いて渡したということである。

困難も人のせいだと思うとたまらないが、自分の修業と思えば自然と楽土にいるように思えるものだ(鉄舟)

参考文献:最後のサムライ 山岡鉄舟(教育評論社)
       図説幕末志士199 (学研)
       氷川清話(角川ソフィア文庫)
       西郷南洲遺訓(岩波新書)
       戊申戦争(中公新書) 佐々木克著


伝馬町の鉄舟・隆盛の会見碑


鉄舟の書になる清水港の壮士の墓


鉄舟の父は飛騨高山の郡代であった。鉄舟は十代半ばまで高山に住んだ。

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唐人お吉の悲劇

2010年09月03日 | 江戸の人物
愛知県知多の内海海岸に唐人お吉の像が建っている。

お吉というと米国領事ハリスと愛人契約を結び、その後はすさんだ人生を歩んだ下田の、あの「お吉」のことであろうが、なぜ、この内海海岸に像が?
郷土史によると、お吉は内海に生まれ、四歳のときに、家族とともに下田に移り住んだとされている。
像の前にある「白砂の湯」のフロントに尋ねると、お吉の年表も置いてあって、お吉が内海生まれであることを説明してくれた。
文献を当たってみると、これは昭和14年に名古屋の尾崎久弥氏が西岸寺の過去帳や明治初期の戸籍台帳から調べた結果である。
しかし、西岸寺の過去帳説を信じ、年代別に並べると、お吉の母である、きわはお吉が生まれる数十年前に死亡しているなど時系列的に解決できない矛盾点も出てくる。過去帳の人物は同名別人である可能性も高い。
これは簡単には結論付けられないし、お吉の生誕地が本題ではないので、とりあえず保留。

では、本題。
お吉はなぜ入水自殺しなければならなかったのか?

その前に、簡単にお吉の生涯について言及したい。

日米通商条約締結のため日本に来ていた総領事タウゼント・ハリスは下田に滞在中、看護婦を幕府に要請。
看護婦を妾と勘違いした幕府は船大工の娘、お吉に白羽の矢を立てた。
当時、鶴松という恋人のあったお吉だが、組頭伊佐新次郎の説得に、涙ながら同意し、ハリスのもとに出向く。
3日間という短期間で、お払い箱になってしまったお吉であったが、その後は異人に肌を許したということで、誰からも白い目を向けられ、次第に自暴自棄になり酒に溺れていく。
14年後、ふとしたことで鶴松と再会したお吉は、鶴松と所帯を持つが、4年後に破局。
それからは、お吉はさらに酒乱の度合いを濃くし、最晩年には物乞いのような境遇になりながら、入水自殺した。

このような悲劇のヒロインに仕立てたのは、昭和初期の小説家十一谷義三郎で、「時の敗者・唐人お吉」の題で都新聞(現在の東京新聞)に連載するや、大ベストセラーとなった。
このヒットに目をつけたのが東海汽船で、一万冊を購入し、乗船客に配った。
さらに歌舞伎で取り上げられるや、ますますヒット。
それまでは秘境だった下田が一気に東京の奥座敷と呼ばれるようになった。

上に挙げたお吉の説明は、半分は脚色されたものであろうが、大まかなところは事実である。
お吉と同時期、ハリスの通訳であるヒュースケンには、お福という15歳の娘が「看護婦」として遣わされている。
そのとき、名主が彼女らを諭した古文書が残っているが、それによると、「妊娠したときはすぐに伝えるように」という露骨な項目もあり、目的は明らかである。
ハリスに仕えた女性はお吉を含め3人、ヒュースケンには4人である。
お吉以外の6人は小説にはならず、お吉だけにスポットライトが当たったのは、最期が哀れだったからであろう。

お吉はなかなか商才があったらしく、そこそこ小さな成功を手にするが、酒によってその成功をフイにしてしまう。
お吉を酒色に駆り立てたのは、ハリスとの一件であったのは想像に難くない。
確かに、当時とすれば現代からは想像もできない悲惨なことだったのかも知れない。
大きな挫折だっただろう。

異人に仕えた人間は、明治を迎えれば飛躍的に多くなった。
その中にあっても、お吉は一回の失敗に固執した。
自分は特別だと思う自尊心と、挫折感が複雑に交差していたと思う。
その感情ゆえ、彼女は酒におぼれ、物乞いに身をやつし、入水自殺をせざるを得なかった。
きっと、生真面目な性格だったのではないかと思うが、少し息を抜いて、発想転換できればここまで悲劇にはならなかったはずだ。
言うのは易く、行うのは難いのだけれど。


(参考文献)
ハリスとヒュースケン 唐人お吉(下田開国博物館)・尾形征己著
幕末開港の町 下田 (下田開国博物館)・肥田実著
静岡県茶産地史 (農文協) 大石貞男著
幕末・明治の写真(ちくま学芸文庫) 小沢健志著


内海海岸のお吉像


アップにしてみました


お吉19歳の写真と言われるが、残念ながら別人である

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田沼意次の遺言

2010年07月11日 | 江戸の人物
駿河湾からほど遠くない地に相良資料館が建つ。
遠州相良は、かつて田沼意次が領主を務めた土地で、この資料館が建っているのは、相良城の本丸があった場所である。
私の中では、田沼意次というと、いまも田沼町という地名が残る栃木のイメージが強いが、実は静岡のほうが所縁が深い。

意次と忠臣蔵の主要人物、大石内蔵助、吉良上野介には共通点がある。
それは、三人とも製塩業に力を入れていたことである。
赤穂の塩は現在も有名だが、相良や吉良の塩は今は聞かなくなった。
上野介は赤穂の塩に妬みがあった、という説もあるが、赤穂の塩はそれだけ優秀だったのであろうか。

意次は遺言として家訓を残している。
七条から成り、徳川に対する忠誠や、文武の奨励、孝行を行うことなどを説いているが、別枠として書き記している七条は意次の真骨頂である。

勝手元不如意で、貯えなきは、一朝事ある時役に立たない。御軍用にさしつかえ武道を失い、領地頂戴の身の不面目これに過ぎるものはない。

意次に対する悪評は松平定信が悪意を持って流布したというのが現在の定説ではあるが、意次はこのように商人的な考え方を持つ、当時としては異色の武士だったことには変わりがない。
大奥が騒ぐような色男だったとか、誰彼となく気さくに声を掛けたなどという話も伝わっているが真偽はよく分からない。
ただ、田沼の血筋は優秀だったのは紛れもない事実で、定信が執念かけて排斥しようとした田沼家はお家断絶になることもなく、一度は奥州に追いやられたものの、後には相良に復帰している。
そして、幕末には田沼意尊(おきたか)が若年寄まで進んでいる。
この意尊は、天狗党の乱制圧の指揮官であるが、天狗党員をニシン倉に詰め込み、幕末史最大とも言える斬殺を指示した人間である。
だが、政治能力には長けていて、上総小久保藩に転封後も藩知事となり、さらに、女婿である望(のぞみ)は、明治天皇の侍従を務め、貴族院議員となっている。



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亀田鵬斎

2010年07月04日 | 江戸の人物
江戸時代に亀田鵬斎という人物がいた。
儒学者で書家として有名だったが、今日的な考えでいけば、「大馬鹿野郎」である。
浅間山噴火の際には私財を投げ打って被災者の救済に当たるし、赤穂浪士の際にはこれまた私財をはたいて泉岳寺に石碑を立てている。
独り身ではなく、家には妻も子もいる身である。
有り余る金ならともかく、使ってしまえば明日からの米にも事欠く大事な金子である。
それを妻子に相談もなく、自分の義と思う事柄にポンポンと使ってしまう。
「いい人」には違いない。
だが、傍からみれば美談でも、当事者では堪らない。

この鵬斎に次のようなエピソードがある。
年末に集金のために越後に行っていた鵬斎は、江戸も間近となった浦和で、泊まった宿が異様に暗い雰囲気に包まれているのを感じ、主人に仔細を問う。
主人は答えて曰く、借金のかたに娘を売る必要がある、と。
借金の額を聞くと、百両とのこと。
このとき、鵬斎の財布にはきっちり百両が入っていた。
鵬斎は、一瞬躊躇したものの、有り金全部を置いて宿を逃げ出すように飛び出す。
家に帰った鵬斎は、妻にもさすがに本当のことは言えずに、布団を被って寝込んだ振りをする。
そこに友人の著名な画家である酒井抱一が来て、問いただすと、さすがの鵬斎も嘘をつけず、本当のこと話す。
すると、抱一は、「さすがは鵬斎である」といって、年末の払いなどをすべて肩代わりししたので、鵬斎はやっと年を越せたそうである。

美談である。
だが、自分が鵬斎の妻の立場だったらどうであろう。
鵬斎が出した百両の金で浦和の宿の一家は助かったが、そのあおりを受けて、鵬斎の一家は飢え死にしてしまうかも知れない。

ただ考えてみると、集金から帰ってきた主人が金も渡さずに黙って寝込んでいる。
それまでの鵬斎の心情を知っている妻からすれば、舌打ちはするが、「またか」と思ったに違いない。
家計費にも困るのは明らかであるのに、夫を詰問して「改宗」させようとしない妻も「馬鹿者」である。

抱一というのも「馬鹿者」である。
貸すのではなく、惜しげもなく自分の金を与える。
利益などあろうはずもないのに、損な行為を続けている。

現代には、ホリエモンなる怪獣もいた。
ホリエモンによると「金こそすべてのパワー」だそうである。
そう考えたら無償で金を提供するなど、自己のパワー低下を招くだけに過ぎない。
きっと、馬鹿だったのであろう。

江戸時代、亀田鵬斎という大馬鹿がいて、妻も大馬鹿で、さらには友人にも酒井抱一という大馬鹿がいたという事実。
現代は利口な者ばかり。
どちらが社会として成熟していて、どちらが幸福なのだろう。
江戸時代をうらやましげな目で見てしまうのは私だけだろうか。

ここに生きる道がある 花岡大学 PHP

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遺骨とともに酒を呑む~蒲生君平

2010年05月31日 | 江戸の人物
寛政の三奇人と言われた一人に蒲生君平という尊王論者がいる。
奇人と呼ばれるだけあって、種々のエピソードには事欠かない。
その中で、印象に残るのは、親友であった良寿和尚との別れの場面である。

良寿和尚と君平は、来年の春には天橋立へ行って桃の花でも見ようと約束していた。
だが、その冬のうちに、和尚はあっけなくこの世を去ってしまった。
君平は、桃の花が咲くころになるといてもたってもいられなくなり、江戸を経って、天橋立を訪れた。
懐には和尚の遺骨数片が入った小箱を入れている。
橋立に来て舟に乗った君平は二人分の舟賃を差し出す。
船頭はいぶかしんで、一人分で結構です、と断るが、君平は「この箱には骨にはなってしまったが、わたしの友人がいる。だから舟賃はふたり分なのだ」と言って、二人分を支払った。
そして、松の下に座った君平は、「良寿との、みたがっていた天橋立だ」と言って、酒を飲みながら泣いた。
道行く人は何事か、と君平のことをじろじろ眺めたが、君平は一向に気にしないで、酒を飲み続け、最後に、小箱の中に石を詰め、海に沈めたということである。

確かに奇行である。
いずれにせよ、本人はそうせざるを得ない切羽詰った感情に支配されている。
果たして、自分が死んだとき、このような行動を起こしてくれる友人が何人いるだろうか。
あるいは、友人が死んだとき、自分はこのような切羽詰った感情に押されて奇行ともとれる行いを自然に取れるだろうか。
君子の交わりは淡い、と言い、べたべたした関係だけが本当の友情とも思わないが、一方で、こういった切ない感情を引き起こす友情もある。
あるいは、男女間の愛情でもよい。
甘い感傷とか、作為的である、などと批判する人もいるかも知れない。
人にはスタイルとか生き方というものがあるから、その批判も間違いではない。
だが、少なくとも、わたしは君平の行為をシニカルに批判する側には回りたくない。


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