木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

妻に土下座した勘定奉行

2010年05月23日 | 江戸の人物
江戸時代は男性上位で、特に武家階級においては、女性軽視の傾向が強かったと思われがちである。
だが、江戸など男性の人口が多い地区では、町民階級ではカミさん連中の力は男性を凌駕した。
武士においては、確かに男性の力が強かったのであるが、今以上にリベラルな考えを持った人物もいた。
川路左衛門尉聖謨(かわじとしあきら)という人物もその一人である。
幕末期、勘定奉行を勤めた人だが、ロシアやアメリカとの交渉において力を発揮した傑物である。
ロシアの代表であるプチャーチンと下田で交渉した際、雑談になると「自分の妻は江戸で一番美しい女性なので、こうして出張していると思い出して困ります」などと発言している。
この川路が、妻の佐登に平伏したことがある。
この事件(?)については、吉村昭の小説が簡潔に書き表しているので、引用したい。

弘化四年十二月中旬、かれは奈良奉行として一事件の裁きをした。一人の女が夫以外の男と関係をもち、そのもつれで夫を殺害し、捕らえられた。川路は、そのような色恋沙汰で事件をおこした女はさぞ美しいだろうと想像していたが、白州にすえられていた女は、稀なほどの醜女であった。
かれは、このような女でも欲情のもつれで一人の男を死に追いやったことに驚き、美貌の佐登を妻としている自分の幸せをあらためて強く感じた。
裁きを終えたかれは、居室にいる佐登の前にゆくと平伏し、ありがたや、ありがたやと何度も頭を下げた。佐登は大いに驚き、精神錯乱をおこしたかと不安になってただすと、かれは醜女のおかした事件を口にし、美しい佐登を妻にしていることがもったいない、と、さらに頭をさげつづけた。その姿に、佐登をはじめ居合わせた用人たちは、息をつまらせて笑った。


佐登という女性が実際に江戸小町になるほど美しかったのかどうか分からない。
焦点は佐登の容姿ではなく、のろけともとれるような妻の長所をほめる発言を平然と行い、そして、妻にも頭を下げる左衛門尉の態度である。
そこには、作為がない。
変なプライドとか、照れとか、駆け引きなどを超越して、ただ妻に頭を下げる左衛門尉の態度は凄いと思う。
相手が配偶者でなく他人であっても、自分の思いをここまで素直に吐きだすのは、難しい。
それだけに、左衛門尉の行動は、貴重なものに思われる。


吉村昭「落日の宴」講談社


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坂本龍馬の筆跡

2010年05月12日 | 江戸の人物
NHKの大河ドラマの影響はかなりのもので、坂本龍馬が人気である。

世の中には色んな鑑定があるもので、筆跡による性格の鑑定というものもある。
宮地佐一郎氏は、その第一人者であるが、坂本龍馬の筆跡を鑑定したことがある。
龍馬の字は、丸みが強く、鋭角が少ない。
これは、人との衝突を好まない性格。
自在の連綿線ともいえるものがあり、ここからリズム感や運動神経が発達していると感じるという。
文字と文字の間も、どこにもつぶれて苦しくなる空間がない。
これは気配りに通じ、龍馬と会った人は警戒心を抱かないと想像する。
あと、龍馬の字は、行の下のほうが左へずれる傾向がある。
このような字を書く人は、楽天家で、発想力が豊かで気配りに優れた人物であると鑑定しておられる。

傾向的には、豊臣秀吉と似ている字であるそうだ。
龍馬と秀吉。
あまり似ているとは言われたことのない二人だが、意外なところから、意外な関係が語られるものである。




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土井聱牙・どいごうが

2010年02月11日 | 江戸の人物
土井聱牙
河合継之介の生涯を描いた司馬遼太郎の「峠」に土井聱牙という人物が登場する。
長編小説の中、わずか三ページ弱の登場だ。
聱牙は、津で土井塾を開き、後に藩校である有造館の五代督学(校長)になった人物である。

(河合継之助は)内心聱牙など一文の価値もないと見限っていた。聱牙には言説があって行動がない。
「彼は用いられざることを憤っている」と、のちに継之助はいった。
「不遇を憤るような、その程度の未熟さでは、とうてい人物とはいえぬ」と継之助はいうのである。


司馬の筆にかかると、けんもほろろに描かれてしまっている。どうも、司馬は藤堂家が嫌いなのか、津の人物に対しては評価が厳しい。津城の天守閣は五層で、旅人はその見事さに驚いた、などと間違いをいくつか犯しているのも、そのせいだろうか(この頃、津の天守閣は焼失してしまい、なかった)。

先日、津へ取材に行っていて、聱牙の子孫に当たる方とお話する機会を得た。
江州日野の楓井(かいで)家に養子に行った次男・純の嫡流の方で、津城のすぐ近くで日本料理店を営んでおられる。

聱牙は、奇人としての行いで有名であった。
ひどく暑がりで、夏は素っ裸で過ごしたという。
暑くなると、裸のまま庭に出て、私塾の生徒に水鉄砲を持たせた。
簡易シャワーであり、気持ちよさに聱牙は奇声を上げて喜んだ。
この声を聞くと、近所の人は夏の到来を実感したという。

奇行ばかりが喧伝されがちな聱牙あるが、実際の思想はどのようなものだったのだろう。
当時、聱牙は「聖人論」という自書の中で孔子を否定したということで知られていた。
聱牙によると、孔子は儒学の祖として尊ばれているのであり、それならば盗賊団を作った人物も祖として尊ばれるべきだ、としている。
「わたしに言わせれば孔子のどこに徳があるというのだろうか」とまで言っている。
そこから考えれば、彼が佐幕派寄りの思想があったとは考えにくい。
彼に言わせれば(大きな声では言えないが)徳川家康は江戸時代という時代を作った祖として尊ばれているだけだと考えた。
実のところ、孔子否定は、幕府の基本思想・朱子学の否定にもつながるが、津の歴代督学は、自らの思想を政治の場面に持ち出さなかった。

津・藤堂家というのは、複雑な立場で、外様であるにもかかわらず、徳川家からの信頼が厚く、親藩に準ずる扱いを受けてきた。
伊勢に近い立地条件から、勤王思想も強い。
伊勢参りの客が立ち寄る観光国として開放的な土地柄でもあった。そのためか、海外からいちはやくカメラを購入するなど、進取の気性も持ち合わせていた。
様々な思想がミックスされていて、一方的な佐幕・倒幕を声高に論じるほど単純な風土ではなかったのである。

話を聱牙に戻す。
小心な人物が本心を見抜かれまいと、豪放磊落な人物を演じることがある。聱牙は小心であったと思わないが、司馬も描いていたように、照れ性だったように思う。
天の邪鬼でもあったのは間違いない。

聱牙は、若い頃、本の読み過ぎで極端に目が悪くなった。読書を制限しろという助言も無視して本を読み続けたため、ついに左目が完全に見えなくなってしまった。
勿論、それでも、聱牙は読む量を落とさなかった。
そんな聱牙であるから、生徒に対する指導には厳しいものがあった。
授業でも筆記は許されず、音読による暗記が求められた。
それも大声での朗読なので、生徒の声は枯れていることが多かった。
私塾を開いている頃は、有造館へのライバル心もあったのだろう。

ある時、聱牙は尋ねられた。
随分、厳しい教育方針だが、落ちこぼれた生徒はどうするのだ、と。
聱牙は答えた。
「私の言う事を聞かないで落ちこぼれた生徒は放っておく。私の言うことを聞いて、なお生徒が落ちこぼれるのであれば、それは教師の責任なので一命を賭しても教えぬく」

聱牙がよく書した言葉に「開物成務」という語がある。
易経の中の言葉で、人々の知識を拓いて、物事を成就させるの意。
東京の優秀な学校である開成学園の由来でもある。

「天下に棄才なし」も聱牙の言葉である。厳しい反面、生徒には愛情を注いだ。
有造館の歴代督学は、研究者よりも、教育者としての一面を大事にしていたように思う。


楓井家に伝わる藤堂家からの礼状

峠 司馬遼太郎(新潮文庫)
叢書・日本の思想家39 橋本栄治 明徳出版社

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細井平洲

2009年12月03日 | 江戸の人物
パソコンの調子が非常に悪い。そろそろ買い換え時なのかなあ・・・

時代の波は著名な人さえも忘却の彼方に押しやってしまう。
その中で自らの名を冠した記念館が造られている人物は希有といってもいいのだろう。
今回取り上げた細井平洲は、米沢藩主・上杉鷹山の師として有名である。
平洲は享保十三年(1728年)の生まれで、享和元年(1801年)に亡くなっているから、江戸中期の儒学者である。
晩年には尾張藩校・明倫館の督学を勤め、平洲の講義を聴こうとした者が建物の内外に鈴なりとなったという。
生まれは知多郡平島村。現在の愛知県東海市である。ブドウ畑が点在する地に、平洲記念館は建っている。

平洲の学問の特徴としては、実学を重んじ、平易な言葉を使っている点が挙げられる。
平洲は学問が象牙の塔にこもることを恐れ、辻説法を行っていた。今で言えば、ストリートミュージシャンの感覚に近い。
街頭での辻説法を聞いたのが、上杉鷹山の部下であり、その線から平洲は鷹山の師となった。
寛政の三奇人と呼ばれた高山彦九郎も平洲の門人であった。

実際の平洲の教えとはどのようなものであったのだろうか。
一部を引用してみる。

およそ、才能あり学問のある人を育てるには、農夫が野菜を育てるようにするべきであって、菊好きが菊を育てるようにすべきではない。野菜を育てるということは、よきも悪しきも皆養い育てることであって、よきにしも悪しきにも、どれにもこれにも、使い道はあるものである。菊を育てている人は、自分の心にそぐわない花を発見すると、必ず刈り取って捨ててしまうであろう。〈教育とは〉概略このようなものなのだよ。

書物で博く学ぶこと、その学んだことを考えることとが、両者相共に補いあって、学問・修養は深まってゆくものだというのが古聖人の教えなのだ。


東海市では平洲の業績を今に伝えようと、かなり尽力している。
平洲記念館も名誉館長に作家の堂門冬二氏を迎え、HPも充実した内容になっている。
細井平洲の名は全国区ではないが、こうした郷土の文化的偉人を後世に伝えようとする行政の働きは、非常に有意義であると思う。



平洲をモチーフにしたキャラクター「へいしゅうくん」

嚶鳴館遺稿・初編 小野重行 東海市教育委員会

平洲記念館HP

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高山彦九郎②

2009年08月22日 | 江戸の人物
インターネットを見ていたら、高山彦九郎は今で言ったらオタクのような存在だったかも知れない、という記述を見つけた。
最初は随分、突飛な意見だと思っていたがよくよく彦九郎の行動を見ていくと、確かにオタクっぽいところがある。
彦九郎は日記マニアであり、コレクターでもあった。彼が集めていたのは全国の美談といった類のものだ。
もっと系統立てて、風俗なども書いていたなら、たとえば「守貞漫考」のような歴史的資料になっただけに、残念である。
彦九郎が現代に生きたなら、さしずめ熱心なブロガーになったであろう。

彼を一言で表す漢字は「純」だろうか。
彦九郎は経世家というが、学者ではない。一派立てて、学説を論じた訳でもないのだが、強烈といってもいいほどの尊王、あるいは敬親といった考えを持って、各地を遊説して廻る。

この彦九郎の一大転機ともいえるのが、光格天皇に拝謁したことであろう。一途な彦九郎は、ますます尊王思想に傾倒するようになり、後に尊号問題では京師にうまく利用されたとも言えなくもない。
尊号問題とは時の光格天皇が実父である閑院宮に太上天皇の尊号を与えたいと主張し、それを松平定信が大反対したという事件を言う。
天皇に在位しなかった親王に天皇の称号を与えるというのはどう見ても異例で、定信の反対意見のほうが筋が通っていたが、朝廷は、繰り返し認可するように主張した。

この問題は、実は江戸と京の綱引きであり、京の揺さぶりであった。
この時、京側のPR担当として彦九郎は活躍するのであるが、幕府から見れば、目の上のたんこぶに等しい。
次第に要注意人物として危険視されるようになり、西国に活動の場を移すが、西の地に行っても、依然、幕府側の監視は厳しく、ついに自刃してしまう。

彦九郎は、優れた思想を遺した人物ではない。
しかし、幕末の志士にも少なくない影響を与えた。
それは彦九郎の思想よりも、彼の純な行動によるところが大きかったのである。

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高山彦九郎①

2009年08月19日 | 江戸の人物
寛政の三奇人と言われたのは、林子平、蒲生君平、高山彦九郎の三人である。
現代となっては、林子平の知名度が一番であろうか。
ちなみに高校の参考書を読んでみると、ちゃんと三人の名前は挙がっている。

寛政時代の経世家、高山彦九郎(1747~93)が尊王思想を説いて全国をめぐり、蒲生君平(1768~1813)は歴代天皇の陵墓の荒廃をなげいて「山陵志」を著し(中略)、いずれも尊王を説くものの倒幕を論じたものではなかった。

外圧の接近とともに、幕政に警鐘を鳴らしたのは海防論であった。(中略)寛政時代には、仙台の人林子平が「海国兵談」を著して海防を厳にすべきことを説いた。


子平の「海国兵談」は、*付きで欄外に引用までされている。

日本は海国であり『細カに思へば、江戸の日本橋より唐、阿蘭陀迄境なしの水路也』と説いて海防の必要を説いた。

この文頭の文句は大学入試にも出題されたことがあるほどで、やはり子平の知名度は抜きん出ている。
君平も宇都宮に蒲生神社が建てられ、学問の神様として名高い。

他の二人と比べて彦九郎はどうであろうか。
彦九郎も高山神社が建てられ、記念館も生まれ故郷の群馬県にはあるが、変なところで最も有名である。
それは京都の京阪三条。
彦九郎は土下座という別名で知られていると言う。
そこには彦九郎が膝をついた姿勢の銅像があり、待ち合わせ場所として有名だそうだ。
だが、地元民でも銅像の主である彦九郎が何をした人物であるか知らない人が大部分であるし、名前すら知らない人も多い。
実は銅像がモチーフとしているのは、土下座をしているわけではなく、御所を見た際に思わず膝まづいた姿勢らしい。

では、彦九郎とはどのような人物であったのであろうか?
次回に内容を見てみたい。

「詳細日本史研究」 笠原一男 (山川出版社)

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幕末のイケメン・渋沢平九郎

2009年08月08日 | 江戸の人物
「悲劇の戊辰戦争」という本を読んでいると、南條範夫氏が書いた榎本武揚の項の文が目に付いた。

榎本は、堂々とした体つきの、非常な美男子であった。この点では、明治元勲のだれもかなわない。彼が宮中に出仕すると、女官たちが騒ぎ立てたといわれる。

そう言われてみると、榎本も整った顔立ちのように思えるが、稀代一と言い切っていいものかどうか。
では、誰が幕末一番のイケメンだったであろうか。暑い夏の暑気払い程度に考えてみたい。

まず、思いつくのは新撰組土方歳三。沖田総司はそんなに二枚目でなかったというのが通説となっているが、歳三は函館で田本研三が撮ったと思われる写真によりイケメンの座を獲得している。
おまけに歳三の写真は、目元に修正も加えられイケメン度を増している。

続けると、木戸孝允なども男前で、よく一緒に写った伊藤博文は木戸の引き立て役のようになっている。
勝海舟も小柄ながら母性本能をくすぐりそうな顔をしている。財閥の大物となった薩摩の五代友厚もなかなかいい顔である。個人的には、山岡鉄舟などもいい顔だと思う。
中には徳川慶喜をイケメンという人もいる。龍馬をイケメンという人もいるが、贔屓倒しのような……。

歴史的には著名ではないが、イケメンとして人気ある人物に池田筑後守がいる。筑後守は、遣欧使節団の正使として巴里に赴いた人物であるが、若くして政治から離れしかも、早世してしまったためあまり知られていないが、「いい男」であるのは間違いないであろう。
下に島霞谷の手になるスケッチを掲載したが、同じ時期に描かれた同じ遣欧使節団の一員、河田相模守も甘いマスクの「いい男」である。

その中であえてイケメンNo1を選ぶとしたら、個人的には渋沢平九郎を推したい。

平九郎は、天野八郎一派により彰義隊を追われた渋沢成一郎の養子である。平九郎は、振武軍参謀として現在の埼玉県本能市の入間川と高倉方面で官軍と激突。激闘のすえ、敗戦した平九郎らは顔振峠から黒山方面に逃走したが、追い詰められてこの地で自決した。

越生町のHP

幕末の人物といっても、何回も写真を撮っている伊藤博文のような人物は例外で、一葉の写真しか残っていない人物が多い。そうすると、その一枚の写真写りというのが、その人の評価にも関わってくる。
たとえば、中原中也も帽子を被った例の写真の写りがよかったから更に名声を得たとも言える(?)し、松平容保なども写真写りがよかったといえる。
平九郎も、残っている写真は紛れもなくかっこいい。
いかがでしょうか?



池田筑後守


河田相模守


渋沢平九郎

幕末諸隊 秋田書店 栗原隆一
悲劇の戊辰戦争 小学館
島霞谷 松戸市戸定歴史館
幕末の志士199 学研

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商人八訓~渡辺崋山

2009年01月20日 | 江戸の人物
豊橋市西南の渥美半島に位置する田原は風は強いが、三河湾に面した温暖で風光明媚な地である。特産物としては、温室メロンが知られ、魚介類の恵みも多い。その地に、トヨタの高級車レクサスを造る工場があり、これまでは順風と思われてきた。それが、今回の経済不況で窮地に追い込まれている。
江戸時代に遡ってみると、田原民の暮らしは楽ではなかった。藩は一万二千石の石高しかなかったが、領内の人口は二万三百人(元禄九年)もいて、小藩であるが城持である。武士といえども、敷地内に屋敷と畑があるのが普通で、昼間は畑を耕す半農のような格好だったという。
この地で最も有名な人物といえば、渡邉崋山であろう。崋山は、寛政5年9月16日(一七九三年)に生まれ、天保十二年十月十一日(一八四一年)に自害した。通称を登(のぼり、のぼる)と言った。
余談になるが、崋山の「崋」の字は、三五歳ころまで「華」で、それ以降は、あまり馴染みのない字の「崋」を用いるようになった。
この崋山ほど「愚直」という言葉が似合う人物を私は他に知らない。
絵画はプロ級で、詩もよく行い、能吏、経世家としても一流であったが、一生涯貧乏生活の中にいた。
器用に振る舞えば、もっと楽な暮らしもできただろうし、彼くらいの才能があれば、たとえば、平賀源内のような斜に構えた部分が態度に現れても不思議ではなかった。
だが、崋山は、どんなに手柄を立てても、自慢する風も、飾るところもなかった。
損得、という概念がなく、たとえ藩主であろうとも自ら信じる道を直言することが多く、藩主も崋山の意図をよく汲み取った。
蛮社の獄で理不尽な仕打ちを受け、更には心ない同僚の中傷のために、自害をする段になっても、自らを「不忠不孝の徒」と言うだけで、何の恨み節もなく果てていった態度は、殉教者の感すら受ける。
ある時、崋山に親しい商人が「何か書いて下さい」と頼んだことがあった。
「書けた」という返事をもらって、商人が崋山の所に行くと、画ではなく、文字が書かれていた。
これが、崋山の「商人八訓」といわれるものである。
「武士の商法」と揶揄された武士層である崋山が書いたのも興味深い。

一・先ず朝は召使より早く起きよ
一.十両の客より百文の客を大事にせよ
一・買手が気に入らず返しにきたらば売るときよりも丁寧にせよ
一・繁盛するに従って益々倹約をせよ
一・小遣は一文よりしるせ
一・開店の時を忘るな
一・同商売が近所に出来たら懇意を厚くし互に励めよ
一・出店を開いたら三ヶ年は食料を送れ


この文句を今でも飾っている商店が田原にはあると言う。
確かに、現代でも通用する訓戒ではないだろうか。
古くはITバブルの崩壊、最近ではアメリカサブプライムローン問題など、現在の不況を引き起こした理由は色々ある。だが、人間の欲望をことさら刺激することによって、景気拡大をしてきたツケにより被っている部分が多いのではないだろうか。今の不況を、崋山が生きていたら、どう見るのだろう。

田原城址桜門

崋山作「花卉鳥虫蔬果画冊」

崋山神社にある崋山像


「崋山渡邉登」 財団法人崋山会

渡邉崋山 田原博物館HP


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水野忠邦③~奢侈禁制

2008年11月24日 | 江戸の人物
株仲間の解散は、一部の商人の特権を剥奪し、自由競争力を高めることによって物価の安定を図ろうとするものであった。
この大鉈が振るわれたのには、問屋仲間が生産地の商人などの仲間外商人たちに流通ルートを攪拌され、弱体化したという背景がある。弱まった力を回復しようと問屋仲間は、幕府の命に反しても、買占めや値待ちなどの物価騰貴となる行為を繰り返さざるを得なくなっていたのである。
さらに、忠邦は銭の公定歩合を引き上げて、物価の安定を狙う。金利の引き下げ、最低賃金の制定なども併せて法令化する一方、町民にはありとあらゆる奢侈禁制の足かせをはめた。
たとえば、女性の髪結い禁止や、縁側での将棋禁止(火事のおそれあり)、寄席の縮小、薬湯の禁止など、微に入り、細に亘るものであった。
収入源である年貢でも、幕府は苦戦している。
延享元年(1744年)には180万1855石であった年貢収納量は、天保七年には103万9970石にまで減少している。
これには、天保期が記録的な不作の年が多く、離農者も多かったことにも起因しているが、農民の積極的な抵抗力が強化されたことが最大の原因である。
経済市場の発展の前には農村も無関係ではなく、多くの情報も流れ込んできていた。
農村近郊での地場産業には、農業に従事しているよりも有利な賃金を得られる場も現れ、離農者も多く見られるようになった。また、在農者であっても米以外の作物を作ったり、内職により農産物以外の商品を作って販売を行う者も見られるようになった。年貢供出にあたっては各地での米の値段(石代)がそれぞれ制定されたから、農民の中には、自分の土地での石代よりも安い産地の米を購入し、その分を納入することも行われた。
この農民層の節税対策とも言える努力の成果あって、たとえば河内若江郡小若江村などでは、天保十三年の祖率は表向き70%という高率であったのに、実際は26.8%でしかなかった土地もある。
また、天保期は、慶応に続いて江戸時代でもっとも百姓一揆が多かった年でもある。一揆の内容もこれまでの強訴中心のものから、打毀しなどより過激なものに変化していた。
天保期に入ると、年貢の取り決めも幕府が一方的に通達し得るものではなくなっていたのである。
忠邦退陣の直接的なきっかけとなったのは、上知令である。
上知令とは、江戸、大坂十里四方を天領にするという案である。利害が複雑に絡むこの案には代地の問題や、地元住民たちの反対が多く、幕府にも強引に押し切れる威厳はなかった。
反対者の多さに驚いた将軍家慶により、この上知令は撤回させられ、忠邦も老中の座を追われることになる。
天保の改革は、時代錯誤で甘い現状認識の上に立脚したものだと捉えるような論調もしばしば見かける。
井関隆子という旗本夫人は、忠邦に対して次のような意見を述べている。

政治に関わる人は、いくら金銀を積み上げても、うまくはゆかない。人々を慈しむ心こそ大切であり、人を思いやる心があってはじめて、従うものである。
それなのに、上の御為といって、人々を苦しめ、世の騒ぎになるようなことを企てるのは、むしろ罪人ともいうべきである。この人はそれほど愚かな人物ではないと思うが、自分から身を滅ぼしたのは、多くの人々の恨みによるものであろう。


この文が旗本、いわゆる身内によって記されたのは注目に値する。「人々を慈しむ心」がある政治家などというのは、近年も含めていた試しがないと思うのだが、忠邦の政策には、強硬論ばかりで暖かさの欠片もないのも事実である。剛ばかりで柔がないと、息が詰る。これは、忠邦自身の生き方だったのかも知れない。
ただ、「我には性欲を律する克己心がある」と自慢した松平定信よりも、何人もの妾を囲っていた忠邦のほうが人間くさいような気がする。
また、忠邦は緊張すると吃音する癖があり、将軍に謁見する際も、人を通じて、自分の癖を事前に知らせている。小心なところのある忠邦としては、落ち目になった途端、手のひらを返すように寝返っていった人間を見て、随分と落ち込んだのではないだろうか。
方法論はどうあれ、幕末近くなり信念を持った武士が少なくなった中、忠邦が出色の人物であったことには、間違いがない。

忠邦は、一度、老中を罷免された後、翌年に再び老中に返り咲いている。
忠邦が城に再出仕する日。
幕府の役人は慌てて木綿の質素な着物に着替えて忠邦の到着を待った。
そこへ新調した黒羽二重のきらびやかな美服を従者にも着せて、忠邦が登城した。
待っていた一同は、唖然としたと言う。
忠邦は老中に就いていた8ヶ月の間に、裏切者の鳥居甲斐守、榊原主計頭などをクビにし、かつては、うるさがって遠ざけていた徳川斉昭の幽閉を解くことに成功した。
この頃の忠邦は開国派になっていたと言うが、真偽のほどは分からない。

水野忠邦 北島正元 吉川弘文館
日本の歴史18 北島正元 中央公論社
旗本夫人が見た江戸のたそがれ 深沢秋男 文春新書
江戸時代年鑑 遠藤元男 雄山閣

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