木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

厠(かわや)

2007年01月30日 | 江戸の風俗
新年早々、下の話で失礼する。

「店中(たなじゅう)の尻で大家は餅をつき」という川柳がある。
これでは何のことか分からない。
昨今、江戸時代は非常にエコ思想が発達していたと言われることが多くなった。
江戸において便所にためられた、し尿は、近郊の農家が金を出して買い取った。
その金は大家の懐に入ったので、店子のし尿で大家は小金が溜まったことを言っている。

18世紀にはヨーロッパでもし尿処理は大きな問題になっており、仏では1740年には下水用の大環状下水道を整備し、セーヌ川に汚水を流し始めた。
しかし、これは汚水を処理せず、ただ単にセーヌ川に流し込むだけだったので、川は汚染し、その水を人々は飲料水として使用していたと言う。
また、ロンドンやパリに住む大都市の住民は共同便所に行くのすら面倒臭がり、尿瓶を愛用していた。
その尿瓶の中身をどうするかというと、日が暮れてから、「水に注意」と叫びながら窓の下に捨てていたという。
町中に、し尿の悪臭が漂っていたのが中世ヨーロッパの実情である。
細菌や微生物の考えの確立していなかった時代のことだから、川に汚物を流すのもそれほど汚いことだとは思っていなかったというのも事実である。
もちろん、そのことに批判的だった人物もいる。
「レ・ミゼラブル」を著したユーゴーは、汚物を川に流すことを危険視し、
「飢えは畑から、病気は川からやってくる」と主張していた。
日本や中国ではし尿を肥料として使うことが常識であっても、ヨーロッパではそうではなかったのである。

江戸時代の江戸や大坂といった大都市でし尿処理が問題にならなかったのは、今述べたように農家が肥料として下肥を利用していたからである。
この下肥は江戸時代が下るにしたがって、ビッグビジネスとなっていったのであるが、面白いのは、し尿にもランクがあったことである。
一番高値をつけたのは、大名屋敷の男子のみのもので、「きんばん」と呼ばれた。
次に街頭に置かれた便所の「辻肥」、一般町方の「町肥」、尿の量が多い「たれこみ」などの種別が続く。

気になるのはその価格であるが、時代やランクにもよって違いはあるのだが、およそのところ一人一年分の排泄物の値段が米14kgの値段だったという。
10kg4000円換算として、5600円といったところであろうか。
これだけではたいしたことがないようにも思えるが、数十人が住む長屋の大家の収入はかなりのものになった。
さすがに大家も、ただ取りは気が咎めたとみえて、正月には餅をついて店子に配り、利益の還元を行ったのである。

し尿の中の肥料成分を硫安、燐肥に換算して、百万人都市だった江戸の人口を掛け合わせると、江戸では、年間5万トンの化学肥料を生産していたという説もあるがどうだろうか?

大江戸生活事情 石川英輔 講談社文庫
歴史読本 1992.8月号 新人物往来社
深川江戸資料館パンフレット

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湯屋のはなし②

2006年06月05日 | 江戸の風俗
前回の続き。

篠田鉱造という人がいる。
1871年(明治4年)、廃藩置県が行われた年の生まれである。
記者として報知新聞に勤務のかたわら、「幕末百話」、「明治百話」、「幕末明治女百話」の3部作を表した。
どれも見聞した話を肩の凝らないエッセイ風に記述したもので、当世の貴重な記録となっている。
その中の「明治百話」の中に湯屋についての面白い記述があるので引用したい。

男女混浴は勿論やかましかったものですが、ズット以前、明治初年までは、男女の風呂が、湯板一枚で仕切ってあったといいます。で男湯から女湯へ潜ってきたなんとかという悪戯が行われて、後はその間に間隔ができてどうにもならなくなったといいます。(中略)陸湯(おかゆ)即ちあがり湯といって、湯から上がる時、拭くまえまたは体をながすための湯が、三尺四方に仕切った、底のある三尺くらいのたまりへ、湯が一杯あります。ソノ陸湯は男女兼用ですから、両方から桶を突っ込んで、小桶の鉢合はしょっちゅうで、ソコで知った同士
「オイ春さんじゃァないの」
「オオ秋さんか、おめかしだね」
「冗談いっちゃあいやよ、今来たばかりさ」
板仕切から覗き上げて、
「ばァ」
「アラいやだ」
「このごろは太ったね」
「食べ物がいいからサ」
「ひじきに油揚げか。乳首が黒ずんだね」
「よしておくれッ」


と、こんな会話を同じ町内会の男女の間で交わされている。
しかも、若い男女の間においてである。
そこで、前回の私の疑問(若い男女が混浴で恥ずかしくなかったのか?)である。
長屋では隣のおならの音が聞こえたという。そんなプライバシーというものがない江戸時代においては、個人の裸というもの関しても、今とは比較にならない感覚のズレがあったものと思われる。
年頃の娘とは言え、浴槽では暗いし、少しくらい見られたって、大丈夫、という感覚だったのではないだろうか?
このような状況を目にした外国人はどのような感想を持ったのであろうか?
日米和親条約のために来日したアメリカ人ペリーは概ね日本人に対しては好意的だが、混浴にはおおいに困惑している。
裸体をも頓着せずに男女混浴をしているある公衆浴場の光景は、住民の道徳に関して、おおいに好意ある見解を抱き得るような印象をアメリカ人に与えるとは思われなかった「日本遠征記」

その様子は伊豆下田の湯屋として一葉の写真が残されている。

さきほどの「明治百話」、男性風呂の描写も面白いので、再び引用したい。

じゃくろ口(洗い場と浴槽を仕切る板)があるため、風呂の中は薄暗がりで、湯気もうもう誰が誰だか分からない。だから義太夫でも清元でも、都々逸、トリリトン、下手くそでも唄って、顔を見られない。(中略)女湯は外が賑やかで、風呂の中が静かなもの、男湯は外が静かで、風呂の中が大賑わい習い立ての三勝半七や、歯の浮く嵯峨やお室の花盛りだからたまりません。(中略)賑やかなのを通り越して騒々しかった。(中略)その筋のお達しで、不潔なのと騒々しいのとで、取り払いとなったら最初は変でした。あんまりアケスコで寒いような間の抜けたような、裸同志がつかっていると、キマリの悪いといった風でした。恐慌したのは下手糞太夫で、開放しでは声上げて唄えなくなったものです

とあります。
こうして見ると、江戸時代の人が夜でも電気が煌々とついた現代の銭湯に入れと言われたら、とまどうかも知れない。



追記 インターネットでHPを調べていたら、東京都浴場組合で、銭湯の壁紙(富士山とか山中湖だとかが描かれているやつです)が売っていた。欲しい!
http://www.1010.or.jp/fix/wall/index.html

篠田鉱造 「明治百話(上)」 岩波文庫
http://www.1010.or.jp/main/index.shtml 東京都浴場組合

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湯屋のはなし ①

2006年05月31日 | 江戸の風俗
松平定信が行った寛政の改革。
日本史の教科書で、
「これまでの男女混浴を禁止した」との一文を見て、半ば羨望に似たまなざしで、
「江戸もそれまでは、混浴だったのか」
と、感慨に耽ったのを、今でもはっきりと覚えている。
その時、疑問に思ったことがある。
①年頃の娘など、恥ずかしくなかったのだろうか?
  また、男たちは女性の裸を見ても何とも思わなかったのだろうか?
ということである。
禁止令が出た湯屋(銭湯)の混浴だが、天保の改革の時もまた混浴禁止令が出されている。
しかし、明治まで混浴はなくならなかった。
そこで、
②なぜ、湯屋の経営者は禁止令に逆らったのか?
という新たな疑問が湧いてくる。
湯屋は、混浴がそんなに好きだったのだろうか?

②については今でも地方へ行くと混浴が存在することがヒントになる。
単純に行ってしまえば、改造の設備投資や浴槽をふたつにすると湯の供給も煩雑になるという経営サイドから見たコストの問題から湯屋は混浴を好んだのである。

ただし、江戸時代の湯屋と現代の銭湯では、構造上の違いがある。
湯屋に行った客は、男女別に分かれた入り口から番台を通って、脱衣所に行く。
さらに洗い場があるが、ここは板の間で、現代のように豊富に湯を使えるわけではなく、中央に置かれたため湯から少量の湯を掬って使った。当時は石けんなどなく、糠を袋に入れて使ったので、泡も出ず、少量の湯でこと足りたのである。
と、ここまでは、大体どこも男女別だった。
浴槽は、湯の保温を考え、洗い場と浴槽の間を壁で区切ってあった。
壁の下にはざくろ口と呼ばれる狭い入り口があり、客は腰をかがめて浴槽に入った。
電気もない時代であるから浴槽内は薄暗く、湯気ももうもうと立ちこめ、誰が誰だか分からなかったという状態であった。
薄暗くしたのは、湯の汚れを目立たせないという意図的な狙いもあったと思われる。
寛政の改革以降は、一つの浴槽の真ん中に仕切り板を設け、男女別とした湯屋が多かった。
しかし、仕切り板は上の部分だけで、湯の部分には仕切りがなく、通り抜け可能であった。

そうすると、①の疑問も、
男女混浴と言っても、湯に浸かってしまえば、あまり見えなかったのではないだろうか、という結論になる。
年頃の娘も単独で行くことは少なく、大概が年増の女性と行ったであろうから、彼女らがガードしたであろうということも想像がつく。

ずっとそう思っていたのだが、最近読んだ文献で面白いものを発見した。
これについては、後述したい。

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黄表紙

2006年05月19日 | 江戸の風俗
山東京伝という人物がいる。1761年~1816年に生きた作家である。最初、歌舞伎の脚本からスタートし、黄表紙を書き、後には読本の作者に転向した。日本史の教科書的には、寛政三年三月、寛政の改革により手鎖五十日の刑に服し、版元蔦屋重三郎は身上を半分にされた、というところだろう。
これだけ見ると、寛政の改革って厳しかったんだな、と思われるかも知れないが、どうも出版元、辣腕プロデューサー蔦屋重三郎が、「まあ、これくらいだったら大丈夫だろう」と、お上をなめていたきらいが感じられる。黄表紙出版禁止が申し渡されたので表紙の色を変え、教訓本と書いた帯を巻いて、黄表紙と同じ内容のものを出版したのだから、罰せられない方がおかしいのではないか、と思う。この頃、蔦屋は飛ぶ鳥を落とす勢いだったから、周囲が見えなかったのかも知れない。
しかし、今回は、そういった歴史背景ではなく、黄表紙そのものにスポットを当ててみたい。
黄表紙は表紙が黄色かったのでそう呼ばれた。
当然、違う色の本もあって、子供向けが赤本、青年向けが青本、黒本と呼ばれたのであるが、その黄表紙の内容はどのようなものだったのだろう。
寛政の改革の時、風紀を乱すという理由で罰せられたのだから、アダルトな内容なのでは、と思う方も多いのではないかと思うが、そうではなく、政治的な風刺がとがめられたのである。
黄表紙は、「文武二道万石通」だとか「江戸生艶気樺焼」だとか「桜姫全伝曙草紙」だとか漢字ばかり並ぶので、現代人には、たいそう難しそうに思えるかもしれないが、何のことはない、今で言えば、漫画のようなものだ。
挿絵がドン、と描いてあって、あいたスペースに本文がずらずら書いてある。
挿絵はとってもシュールだが、有名画家葛飾北斎なども絵を提供している。
内容もこれまたシュール。荒唐無稽なストーリー、シニカルなギャグの連続である。
といっても分かりづらいだろうから、黄表紙のひとつ「箱入娘面屋人魚」(画・北尾重政)のあらすじを紹介する。

浦島太郎は乙姫との結婚が倦怠期を迎え、繁華街である中州で芸者の鯉と浮気する。
中州は現在の箱崎町あたりであり、実際の繁華街であったが、黄表紙では設定上、川の中に水没しており、竜宮城のようになっている。
二人は事に及び、鯉は妊娠し、出産。浦島太郎はその子供を押し付けられてしまう。
女の子だったが、魚と人間のあいの子であったので、人魚(絵がかなりすごい)である。
困った浦島太郎は、その人魚を海に流してしまう。
後日。
漁に出た平次は、網にかかった大きな魚があるので、見て仰天。
成人(成魚)した人魚だった。
平次は大事に家に持って帰ってこっそり女房にする。
どこで聞きつけたか、見世物小屋の主人が、売らないかなどと言うが、平次は即座に断る。
しかし、家は貧乏で街金にも金を借り、家賃も滞納するありさま。
そこで、人魚は自らを女郎屋に売り込むことにする。
珍しもの好きの女郎屋主人が人魚をもらいうけ、花魁にする。
上客がついたのはいいが、初床の際、あまりに人魚が生臭くて、臭いに我慢しきれず、客は逃げ出してしまう。
結局、人魚は家に追い戻されるが、借金の山。
困った二人が儒学者に相談したところ、人魚をなめると、若返るので商売にすれば、と言い出す。
それを聞いた庶民はひとなめ一両以上もするのに老若男女が押し寄せるように人魚をなめにくる。
「もっと下の方がなめたい」などという下品な客もいたが、大盛況。
二人は一気に金持ちに。
女房に鯉のぼり!を着せて、偽商売を始めた者もいるがすぐにばれて、夫婦ケンカが始まる。
一方、自分も若返りたいと人魚をなめすぎた平次は子供になってしまう。
そこに浦島太郎が玉手箱を持参して現れる。
玉手箱をあけてびっくり、平次は油の乗り切った男盛り31歳に。
人魚もなんだかんだしているうちに、皮がむけて、普通の人間になった。
この皮も薬として売れて、二人はさらに金持ちになる。
それから平次は年をとると人魚をひとなめし、若返り、もう何百年も生きているという話。
二人が住んだ所をもとは人魚町と呼んだが、今はなまって人形町になったと最後にこじつける。


あらすじよりも原作は数倍面白い。
下記出版社から本がでているので興味ある方は実際に手にされてはいかがだろう?
   
左が箱入娘面屋人魚、右の画は葛飾北斎

江戸戯作草紙 棚橋正博 小学館
ポケット文学辞典 文研出版

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